私は"それ"を虚無と呼ぶ
私が初めて"それ"に出会ったのはいつだろうか。「出会った」という言い方はやや間違っている。正確には「陥る」だ。
初めて、というと正確な記憶は思い起こせない。が、強烈な"それ"は今でも覚えている。
高校1年生の頃、私は遅ればせながら初めて鋼の錬金術師を読んだ。それはもう夢中になってページをめくった。なんでこんな素晴らしい漫画を今までノーマークだったんだろうと自分を殴ってやりたい気分にもなった。とにかく当時の私にとっては衝撃的な面白さだった。
指パッチンで目の前のものを炎で焼き尽くす妄想を2億回はした。
あの時はただひたすらに漫画の世界観に浸っていた。あれほど楽しい漫画体験はなかなか貴重だ。
当たり前だが、物語には始まりがあり終わりがある。夢中になって読んでいた鋼の錬金術師も気がつけばあっという間に最終巻。惜しみながらじっくりと読んだ。最後のページを読み、漫画を閉じた瞬間、様々な感情が私の心の中で吹き荒れた。
少し前まで物語の世界に浸っていたのに唐突に現実世界に引き戻されるあの感覚。心にぽっかりと穴が空く。自分の一部はあっちの世界に置いてきてしまったのではないかと思うくらいに自分の何かが欠けた気がするのだ。
小雨の中、傘を持たず意味もなく散歩に出かけた。外灯が降りしきる雨を浮かび上がらせる。世界の輪郭が曖昧になる。外灯の光の先に何となくエドやアルがいるような気がするのだ。
寂しさ、という言葉だけでは表しきれないような何か。私は"それ"を虚無と呼ぶ。
虚無は時々やってくる。その作品に没頭し、その世界に浸る。そして迎える物語の結末。虚無だ。名作を体感した後は必ず虚無がやってくる。
勿論、良い作品を鑑賞した後なのだから充足感もある。しかしやっぱり心の大部分を占めるのは虚無なのだ。
漫画にしても小説にしてもアニメにしても映画にしてもゲームにしても媒体は問わない。条件はその世界に浸ることだ。
私は変に真面目なところがあるからどんな作品でも鑑賞する時は真剣に向かい合いたいと思っている。漫画も小説もアニメも映画もゲームも消費物であるのは違いないけど、あまりむやみやたらに消費はしたくない。ひとつひとつの作品に対して丁寧に向かい合うことでよりその世界に浸ることができるからだ。
虚無がやってくるとどうしようもない気分にはなるが嫌というわけではない。むしろ良質な経験とすら思う。
畑亜貴に言わせれば虚無もまた娯楽なのかもしれない。
私は物語が好きだ。自分以外の誰かの物語がとてつもなく好きだ。その世界に浸るのが堪らなく楽しいのだ。
私は20と数年生きてきてそこそこの数の作品を嗜んできた。段々、刺激に慣れているところもあると思う。言ってしまえばより尖った作品を欲するようになった。ヒリヒリするような、世界観にのまれてしまうような、そんな作品を求めている。
あぁ、また大きな虚無に陥りたい。