ぽけてん

オタクシグナル

映画「続・終物語」 感想

f:id:aoiroma:20181111201311j:plain

 

 

 

 

キラキラ光ってる

気がした思い出

そばにあって触れられない

鏡の国みたい

 

 

 

 

一応諸注意

筆者は原作もパンフも未読

ネタバレあり感想

 

 

 

 

人は動いている時ならばあまり迷ったり悩んだりすることはない。人は立ち止まった時、迷ったり悩んだりする。あるいは逆かもしれない。二者択一を精査したり、最善策を熟考したり、ありえたかも知れない選択肢に想いを寄せたり、と迷い悩むために人は立ち止まるのかもしれない。

 

 

 

物語の冒頭、阿良々木暦はこのような旨の台詞を発する。

 

「これはおまけの物語。しかし、おまけといって侮ってはいけない。人は勝利より敗北から多くを学ぶように、おまけからも多くを学ぶことがあるだろう。」

 

終物語を端的に表した台詞だ。物語シリーズ終物語で綺麗に締めくくられた。まぁ原作はまだまだ続いているけど、アニメだけを追っていた私からすると一区切りついた気分だった。だからこそ「続終物語」という表題でどんな物語を展開するのかはなかなか想像に難く、やや不安を持って私は劇場に足を運んだ。

 

あえて言おう、続終物語は蛇足である。しかし、数年、物語シリーズを追ってきた人間ならば確実にぶっ刺さる物語だ。辿った物語を振り返り、それぞれの登場人物に焦点を当てる。これまでの物語の総括をしつつ、視点は過去から未来へと向けられる。阿良々木暦は新たな一歩を踏み出して物語は締めくくられる。

これはおまけの物語。阿良々木暦の停滞の物語。しかし、だからこそ、思うところが多くあった。

 

 

 

物語シリーズは純粋に人を楽しませる作品だと思ってる。含蓄のある台詞が随所に散りばめられ学ぶことも多くあると思うが、必要以上のメッセージ性はなく、あくまでエンターテイメントを確立している。その点で続終物語はやや異質である。何故なら明確なメッセージ性を持っているからだ。最後の横断歩道のシーン。あれは画面の向こう側だけで進行する話ではなく、こちら側にメッセージを投げかけるつくりになっていた。今までこのような構成をとることはしていなかったと思う。西尾維新及び製作者からの投げかけ。おまけだからこそ出来たことなのかもしれない。おまけだからこそ試みた構成なのかもしれない。

 

 

 

鏡とは現実世界をそのまま映すわけではない。鏡に映る世界は光の反射率の関係で現実世界の約80%程度だそうだ。なので鏡に映る世界は現実世界と比べるとぼやけているのだ。輪郭が曖昧になっている。約20%が削られている分。

 

物語の後半、事の真相が明らかとなる。阿良々木暦は鏡の世界に入ってしまったのではない。阿良々木暦は削られるはずだった約20%を現実世界に引き込んでしまったのだ(この辺りの解釈は正しいか自信ない。映画見返すか、原作買うかして加筆修正するかも)。よって世界は辻褄の合わない、へんてこな世界に変わってしまった。何故そんなことが起こってしまったといえば阿良々木暦"心残り"があったからという。具体的に何が"心残り"かまでは語られない。可能性を示唆して、含みを持たせて、この辺りは曖昧に表現されている。

 

阿良々木暦は激動の高校生活を終えた。様々な物語を経て、卒業式を迎えた。阿良々木暦は大学の合否発表が出るまで身分不明の状態で日々を過ごすことになる。曖昧でぼんやりとした時間。走り続けていた阿良々木暦は一旦立ち止まることになった。なので阿良々木暦は今までをふと振り返った。自分の至らなかった点、ありえたかもしれない選択肢、そういったことを考え、副産物として生まれたのが"心残り"だ。

 

 

 

人生において考えても仕方のないことって多々ある。自分の干渉できない事象、選ばなかったもう一方の選択肢、昔の自分の不始末、ありえたかもしれない未来。しかし、人は愚かだから往々にしてそういう考えても仕方のないことを考えてしまう。赤信号の横断歩道、阿良々木暦は言う、「右足から踏み出すか左足から踏み出すか、迷う時がある」と。それに対し、戦場ヶ原ひたぎは高らかに笑った。

 

考えても仕方のないあれこれについて悩むことに意味はない。悩むなと言っているわけではない。時々、立ち止まり、悩み、痛みを感じることしても良いだろう。けれど、人は人である限り、立ち止まったままではいられない。悩んでいるままではいられない。物語を進めなくてはならない。足を踏み出さなくてはならない。だって人は基本的に走り続けているものだ。

 

これが横断歩道のシーンで私が感じたメッセージである。わかりやすく普遍的なメッセージだと思う。ただ説得力があった。阿良々木暦の今までを知っているからこそ、このメッセージには説得力があった。エンドロールが流れ、劇場が明るくなり、ざわつきが起こり始めた頃、私の心は少し軽くなった。らしくもなく私は前向きな気持ちになった。物語シリーズを通してこんな気分になるのが不思議であり面白いなと思ったのだ。

 

 

 

 

離れ離れ見上げた空は

青く、青く、澄みきっていく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さてまぁ感想は以上なのですが、2点ほど不必要な語りをしようかなと。

 

 

一つ目。続終物語のメッセージは上記の通りだけれど、このメッセージだからこそ劇場版でやって良かったのではないかと思った(TVシリーズもやるそうですが)。言ってしまえばこれは停滞の物語。それを2時間に凝縮して物語として語るのは続終物語の性質やテーマに合っていたように感じる。

 

 

二つ目。邪推。めっちゃ邪推。鏡の中の世界ではなく削られるはずの20%を引き込んだ世界に戦場ヶ原ひたぎは現れなかった。それは戦場ヶ原ひたぎに関しては阿良々木暦"心残り"がないからだと言った。しかし、こうは考えられないだろうか。削られるはずの20%を引きこんだ世界とは"裏側"が表出した世界。阿良々木暦"心残り"、パートナーとして選んだのが戦場ヶ原ひたぎで良かったのかという深層的な問い。それが表出したのではないだろうか。つまり戦場ヶ原ひたぎがいない世界で自分のパートナーを改めて考えてみるみたいな。以前から私は阿良々木暦がパートナーに戦場ヶ原ひたぎを選んだことに不満を持っていました。いやだって(略)。まぁ邪推ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は"それ"を虚無と呼ぶ

 

 

 

私が初めて"それ"に出会ったのはいつだろうか。「出会った」という言い方はやや間違っている。正確には「陥る」だ。

 

初めて、というと正確な記憶は思い起こせない。が、強烈な"それ"は今でも覚えている。

 

高校1年生の頃、私は遅ればせながら初めて鋼の錬金術師を読んだ。それはもう夢中になってページをめくった。なんでこんな素晴らしい漫画を今までノーマークだったんだろうと自分を殴ってやりたい気分にもなった。とにかく当時の私にとっては衝撃的な面白さだった。

 

指パッチンで目の前のものを炎で焼き尽くす妄想を2億回はした。

 

あの時はただひたすらに漫画の世界観に浸っていた。あれほど楽しい漫画体験はなかなか貴重だ。

 

当たり前だが、物語には始まりがあり終わりがある。夢中になって読んでいた鋼の錬金術師も気がつけばあっという間に最終巻。惜しみながらじっくりと読んだ。最後のページを読み、漫画を閉じた瞬間、様々な感情が私の心の中で吹き荒れた。

 

少し前まで物語の世界に浸っていたのに唐突に現実世界に引き戻されるあの感覚。心にぽっかりと穴が空く。自分の一部はあっちの世界に置いてきてしまったのではないかと思うくらいに自分の何かが欠けた気がするのだ。

 

小雨の中、傘を持たず意味もなく散歩に出かけた。外灯が降りしきる雨を浮かび上がらせる。世界の輪郭が曖昧になる。外灯の光の先に何となくエドやアルがいるような気がするのだ。

 

 

寂しさ、という言葉だけでは表しきれないような何か。私は"それ"を虚無と呼ぶ。

 

虚無は時々やってくる。その作品に没頭し、その世界に浸る。そして迎える物語の結末。虚無だ。名作を体感した後は必ず虚無がやってくる。

 

勿論、良い作品を鑑賞した後なのだから充足感もある。しかしやっぱり心の大部分を占めるのは虚無なのだ。

 

漫画にしても小説にしてもアニメにしても映画にしてもゲームにしても媒体は問わない。条件はその世界に浸ることだ。

 

私は変に真面目なところがあるからどんな作品でも鑑賞する時は真剣に向かい合いたいと思っている。漫画も小説もアニメも映画もゲームも消費物であるのは違いないけど、あまりむやみやたらに消費はしたくない。ひとつひとつの作品に対して丁寧に向かい合うことでよりその世界に浸ることができるからだ。

 

虚無がやってくるとどうしようもない気分にはなるが嫌というわけではない。むしろ良質な経験とすら思う。

 

畑亜貴に言わせれば虚無もまた娯楽なのかもしれない。

 

私は物語が好きだ。自分以外の誰かの物語がとてつもなく好きだ。その世界に浸るのが堪らなく楽しいのだ。

 

私は20と数年生きてきてそこそこの数の作品を嗜んできた。段々、刺激に慣れているところもあると思う。言ってしまえばより尖った作品を欲するようになった。ヒリヒリするような、世界観にのまれてしまうような、そんな作品を求めている。

 

あぁ、また大きな虚無に陥りたい。

 

 

 

津島善子「ガンジス」④

津島善子「ガンジス」③ - ぽけてん

 

↑の続き

 

 

津島善子

 

 

「よ、善子ちゃん!?」

 

ヨハネよ!」

 

2億4000万回目のやりとりである。

 

「こんなところで何してるずら?」

 

「ずら丸を追いかけてきたに決まってるじゃない!」

 

そう、私はずら丸を追いかけてここまで来た。何故か。それは

 

 

ずら丸は大切な友達だ。けれど、友達を思う以上の"何か"が私の心の中には存在した。その"何か"はとてもいけないもののように感じる。見ないようにしていた、考えないようにしていた。その存在を認知してしまうと後戻りできない気がしたからだ。でも、無理だった。それは日に日に大きくなり、私は苦しくなっていった。そう苦しいのだ。決して甘美なものではない。苦しく、心の中がぐちゃぐちゃになる。そろそろ認めなくてはいけないだろう。この"何か"の正体は

 

川沿いにふたつ並んだ影法師。キラキラと川面は輝き、世界は赤く染め上がる。

 

「あんなことして、ごめん」

 

掠れるような声で私は呟いた。

 

「あんなことってなんのことずら?」

 

ずら丸とは付き合いは長い。ずら丸が仮面を被っていることくらいはすぐにわかる。

 

「キス、しちゃったじゃない、お酒の勢いで

 

「あぁ……あのことずらか。マルは気にしてないずらよ。」

 

「でも、あんたは急にインドに行っちゃうし、びっくりした追いかけなきゃって思ったし、ずっと謝りたかった

 

「善子ちゃんは気にしすぎずら。」

 

 

自分らしく、自分に正直でいる。私がスクールアイドルの活動で学んだ大事なことだ。今、私は悩んでいる。私の心の中に潜むこの"何か"は恐らく普通ではない。普通とは何か、という話をすると長くはなるがつまりは一般的ではないのだ。それを肯定して良いのか。そして、ずら丸に押しつけて良いのか。良いか悪いかで言えば、多分、心の中に秘めたままの方が吉なのだろう。けれど、私は

 

「私はね、禁断の果実に触れようとしているの。一度触れたら戻ることは難しい。それは花園と例えられるけどそこまでの道は茨の道。」

 

「き、急になんの話ずら

 

「酔っ払っていたとはいえ私は酷いことをしたと思うわ。そのことは本当に申し訳ないと思ってる。でもね、」

 

ずら丸の瞳を見据える。その瞳の深さに一瞬溺れそうになる。意を決するのよ、ヨハネ

 

「花丸。私は………………………

 

 

私は知らなかった。恋とは苦しいものである。世間一般のきらびやかなイメージとは一変、想像以上の重さがそこにはあった。でも、実は甘美な蜜は遠いようで近かったりもする。

 

 

 

 

 

~~~~~~~~~~~

 

とあるインド人の話

 

「凄い可愛い女の子2人が手を繋いで歩いていたんだよ!もうあれは2人だけの世界が完成されていたね!眩しすぎて直視できないくらいだったよ!世界の終わりを告げる使徒が地球に降り立ったとしたら多分あの2人のようなオーラを纏ってるんだろうね!ひっっっひゃっほぅぅぅ!!」

 

~~~~~~~~~~~~~~~

 

 

 

 

 

「でも、お酒の勢いで接吻するなんて最悪ずら」

 

「だから、ごめんって言ってるじゃない!!」

 

 

 

 

 

 

お酒から始まる恋だってあると思います。

 

 

[後語り]

 

大学の卒業旅行でインドに行ったんですよ。2週間くらい滞在してました。それはもう日々刺激的で非日常の連続でした。ただ困ったことに食べ物が身体に合わず、滞在中殆ど下痢をしていました。私がタージマハルのトイレで下痢をしている頃、日本ではAqoursファンミ千秋楽が行われていたそうです。私が腹痛で顔をしかめながらガンジス川を眺めている頃、日本では私が4年間過ごした大学の卒業式が行われていたそうです。「日本に帰りたい」が口癖になってたりしてないですよ、、、え?まぁとにかくインドでの日々で感じた色んなものを本作に取り入れたつもりです。

映画「若おかみは小学生」 感想

f:id:aoiroma:20181014111503j:plain

 

 

おっこおっこぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ!!!!!!!

 

 

 

 

以下ネタバレ満載感想

 

 

 

とめどなく涙が流れた。なんであんなに泣いたのか今となってはよくわからない。でも、おっこを思い出すだけで涙が出るのだ。

 

 

映画「若おかみは小学生」はTwitterで話題になっているのを見て知った。ポスターを見た第一印象は"あまり面白くなさそうだな"だ。ただ話題になるだけの何かがあるのだろうと期待を込めて鑑賞に臨んだ。まぁ普通に休日が暇だったのである。

 

本作の制作スタッフはジブリ出身が多いようだ。となるとどうしても比較対象として挙げられるのが「千と千尋の神隠し」だろう。実際、旅館が舞台、小学生の女の子が主人公、ファンタジー有、とかなり要素は似ている。「千と千尋の神隠し」は千尋の成長譚ではないと宮崎駿が言っている。では、なんの物語か。"子供には秘められた力があってその力は誰しもが持っている"というのが「千と千尋の神隠し」のメッセージだそうだ(なんかのインタビューでそう言っていた)。ってこれ「若おかみは小学生」にもそのまま当てはまる。設定といいテーマといいかなり似たり寄ったりなこの2作。高坂監督はどんな思いで本作の制作にあたったのかは気になるところだ。

 

 

 

 

古来より温泉とは人の身体と心を癒してきました。日々の生活に疲れた時、温泉に浸かりたいなぁと思うことってしばしばあると思います。当たり前ですが、温泉とは一時的に浸かるものであり、永遠と湯に浸かってるわけではありません。湯の癒しは次の日の糧となる。

 

おっこは小学生にしてハードイベントを経験しました。その傷は自分でも把握できないほど深い。実感を伴わない心の傷。その傷を癒したのは、ウリ坊と美陽と過ごしたドタバタの若おかみ生活だった。その摩訶不思議な体験はじんわりとおっこの心を温めた。

 

 

なんの残酷な因果か物語の後半、あの事故のトラックの運転手が来客する。おっこはあまりにも健気で、あまりにも立派だった。そこに立っていたのは確かに若おかみであった。

 

(あのシーン、なんとなくグレンラガン11話を思い出したのは私だけでしょうか)

 

両親は亡くなってしまった。しかしその魂はおっこの中に生き続け、おっこの生きる支えとなる。泣くだけではなく、おっこはしっかりとその足を踏み出したのだ。この若年齢にして、この立派な立ち振る舞い。道徳の教科書ってレベルではない。

 

「花の湯温泉のお湯は誰も拒まない。すべてを受け入れて癒してくれる」

 

 

 

おっこは次第にウリ坊と美陽が見えなくなっていった。それはウリ坊と美陽が成仏するタイミングもあったのだろうが、どちらかといえばおっこの心が癒えたからこそ見えなくなったように私は思えた。つまり、ウリ坊と美陽はおっこにとって温泉のような役割を担っていたのではないかと思えるのだ。心を癒し、明日への糧となるよう優しく手を差し伸べたウリ坊と美陽。だからこそ、ウリ坊と美陽はこう言った、「また会おう」と。

 

 

 

 

純真な心で世界を生きるおっこの姿勢が眩しすぎたからこそ、私は延々と涙を流し続けることしかできなかった。

 

おっこなんてええ子なんや

 

 

 

本当に良い映画を観ました。

 

 

 

 

 

 

 

 

まったく、小学生は最高だぜ

 

津島善子「ガンジス」③

津島善子「ガンジス」② - ぽけてん

↑の続き

 

 

津島善子] 

酷い目に遭った。

 

ATMでお金を下ろそうとしたらそのATMには現金が入っていないと言われ、裏路地に入ったら野良犬に何故か追いかけられ、日本語堪能なインド人に高級シルクのスカーフを買わされそうになったりと、ドタバタの一日だった。へとへとになりながらガンジス川沿いの宿に着いた頃には既にあたりは暗くなっていた。

 

お金の心配もあったから安めの宿に泊まったらシャワーからお湯が出なくて修行僧のような風呂となってしまった。

 

「これも美しすぎる堕天使が故の運命

 

そう台詞を残し私は深い眠りについた。

 

 

ラブライブ優勝してから1週間後くらいのことだった。放課後になり、私は中庭の自動販売機で飲み物を買ってから部室に向かおうとしていた。中庭の私のいるところからちょうど対角線上に果南がいるのが見えた。声をかけても良かったがどうせ部室で会うからそのまま去ろうとしたが、ふと気になりもう一度果南の方に視線を向けた。果南は誰かに話しかけられていた。あ、と思った。あれは告白だ。確証はない。けれどなんとなくわかる。女子校では"そういうの"もある、と聞いたことがあった。しかし実際に見るのは初めてだったし、まさか知り合いが

 

初めて見たのはその時だったがそれ以降も"そういうの"を見たり聞いたりは何度かあった。高校三年生の頃、私も2回ほど女の子に告白された。元々恋愛方面には疎い方であったが、"そういうもの"の存在は私の胸の中に確かに残っていた。

 

 

朝になり、私はずら丸の捜索を始めた。川辺に降り、川上の方に向かって歩き出す。インドではクリケットが人気だ。テレビのチャンネルを回すと大体クリケットのニュースがやっている。ガンジス川沿いでもその人気は衰えるとこを知らず、子供達がクリケットをやっていた。何度もボールを川に落としていたし、なんでこんな不便そうなところでやっているのだろう

 

 

 

人を好きになる、という気持ちが私にはいまいちわからない。20年余りの人生を送ってきてまともな恋愛をしてこなかった。我ながら驚きだ。でも、堕天使に恋は似合わない。例え誰かが私に堕天することはあっても、逆はありえない。堕天使とはそういう運命の星の元に生まれてきている。

 

 

 

日が上がって暑くなってきた。屋台でよくわからない食べ物を買い、日陰で食べた。インドの屋台の食べ物はとりあえず辛い。私は辛いものが好きだから良いが、ルビィがインドに来てしまったら何も食べられなくなってしまうだろう。

 

 

 

ずら丸は上級リトルデーモンだ。高校時代、激動の日々を共にした眷属であり、同士であり、大切な友達だ。私達は別々の大学に進学した。会う頻度はもちろん減ったがそれでもずら丸とルビィと私の3人はよく集まった。

 

いつからだろうか。生活の中でふとずら丸を思い出す機会が多くなった。美味しいケーキを食べた時、面白い本を見つけた時、綺麗な夕日を眺めた時、ふと想起される女の子がいる。隣に彼女がいないことに違和感を感じてしまう自分がいるのだ。

 

 

 

かなり上流の方まで歩いてきた。周りには殆ど観光客はいない。いるのは川を見ながら呆然としている現地人と牛と私だ。風が吹く。川面に細波が広がり、私の髪を揺らす。

 

 

あぁ………

 

 

私は川辺で文庫本を読んでいる女の子を見つけた。

コトバ

私が就活していた時、往々にしてこんな企業説明会が蔓延っていた。

 

弊社は様々なニーズに応じて最適なソリューションをフレキシブルに働き結果にコミットする

 

!?!?!?!?!?!?

 

したり顔で説明を続ける人事。眠気と戦う学生達。就活という人生の岐路。鎮座する弱肉強食。資本主義の暴力。

 

私の知らない間に日本語はここまで進化していたのか。これが若者言葉についていけない親の気持ちなのですか

 

ふむふむと頷きながら話を聞いてはいるが、何を言っているのかちんぷんかんぷんである。

 

しかし、説明会といいつつも誰に向けて何の話をしたいのか、さっぱり謎だ。

 

まぁこんな文句を言いつつも私の入社した会社のHPは無限にカタカナ語が羅列されている。んもぅ!

 

 

カタカナ語とは、日本語の文章中においてカタカナで表記され、主に欧米諸国から借り入れられた言葉を指す。「キャラメル」はポルトガルから借り入れられた言葉だ。16世紀まで日本には「キャラメル」がなかったが、交易を行っていたポルトガルから「キャラメル」が伝えられる。そこで初めて日本に「キャラメル」の概念と名前が定着した。このようにカタカナ語とは日本語を補うために借り入れられる言葉であり、新しい概念を日本に取り入れる手段として用いられる。

 

 

昨今、テレビでも学校でも会社でもプライベートでもカタカナ語の頻出頻度は上昇傾向にある。何故か、と問われればその原因は結構容易に挙げられる。その原因をつらつらと挙げてもよいのだが、今回はある視点から深掘りしてみようと思う。

 

学生の頃、カタカナ語を使う理由の8割はかっこつけによるものという考えを持っていた。この考えは今でも正しいと私は思っている。勿論、それ以外にも様々な要因はあるにしてもかっこつけが主な理由の筆頭となるはずだ。しかし、この考えを持つようになってからより人の発するカタカナ語に対して敏感になり、人がカタカナ語を使うのはそういう表層的な理由ではなくもっと深層的な理由によるものではないかと考えるようにもなった。

 

人間とは飽きやすい生き物である。常に新しいものを求め、刺激を欲している。流行は生まれて消え生まれて消えを繰り返し、私達を取り巻く物事は目まぐるしく変わっていく。この性質は言葉にも当てはまる。流行語大賞なんかがわかりやすい例ではあるが、言葉も多くが生まれ多くが消えていく。

 

人の生活と言葉は切り離せない関係である。言葉無くして人は生活を送れない。人から言葉を取り上げたら人は何になってしまうのか。多分、チンパンジーと区別のつかない何かになってしまうのでしょう。

 

言葉とは非常に流動的である。人が変われば言葉も変わる。環境が変われば言葉も変わる。同じ言語でも時代が変わればその様相は違う。日本語も200年前と400年前と600年前じゃ形が変わってくる。また、同じ言語でも使用する地域が違えばその様相は違う。日本語も使用地域が違えば方言として多種多様な形に変わってくる。

 

さて、ここまで人と言葉の性質をつらつらと書いてきたわけだけれど、段々と本記事の着地点が見えてきたかなん?新しいものに手を出してみたくなるのは人の性質である。そこに目新しいカタカナ語があったら使ってみたくなるのはある意味必然なのだ。カタカナ語の頻出頻度が上昇しているのは、かっこつけとか利便性や実用性が高いとかそういう表層的な理由ではなく、新しいものに手を出してしまう人間の本能のようなものが働いているためではないだろうか。目新しい言葉がある、使ってみたい、という結構単純な思考回路が根底にあるのではないかと私は思ったのだ。

 

言葉は生きている。それは時代的な視点から見ても地域的な視点から見ても明らかだ。じゃあなんでこんなにも言葉は変化しやすいのかといえば、人が(または人を取り巻く環境が)変わり続けるからである。グローバル化が進んでることもあって日本では今後ますますカタカナ語が増え続けることだろう。そのことに関する是非にはあまり私は興味はない。が、言葉を使う場面は選ぶべきである。冒頭に述べた企業説明会のような機会で、伝わりにくいような言葉を選ぶのは最悪である。目新しさばかりに気を取られ、"伝える"という本質を忘れてしまっては本末転倒である。しかし、この本末転倒は本当によく色んな場面で見られるのが悲しきことなんだな。

 

 

こちらは私が学生の頃に書いた記事。

内容は散らかってるけどこっちの方が読んでて面白いネ

カタカナ語氾濫の要因を考える - 独白デビビビーン

 

津島善子「ガンジス」②

 

津島善子「ガンジス」① - ぽけてん

↑の続き

 

 

国木田花丸

 

私は何をしているのだろうか。心がざわざわとして、文庫本を開いても内容が頭に入ってこない。上手くものを考えられない。あの日のことだけが、ぼんやりと浮かんでは消えていく。

 

 

霞んだ地平線から薄明な陽が広がり、じんわりと今日が染み込んでくる。私はまだ静かなガンジス川の畔をゆっくり歩いた。川で洗濯をする人、寝ている牛、陽光を反射する川面、全てが初めての景色であるのにどこか懐かしさも感じる。

 

 

死生観、と言えば大袈裟ではあるが、ヒンドゥー教の聖地であるこの地には以前から興味があった。インドでは今でもカースト制度が色濃く残っていて、火葬される際もカーストによって分けられる。死してもなお、カーストは残るのだ。この事を知った時、私は非常に驚いた。日本ではなかなか想像できない価値観である。インドに行くのは衛生面や治安面で不安があったが、先日の一件のこともありなんとなく踏ん切りがついてしまった。

 

同じ時代に生まれながらもこれほどまでに違う価値観を持つ。その営みの一片を実際に垣間見ることで私は何を思うだろうか。

 

 

地図を開き、ガンジス川沿いにある火葬場に向かった。川に沿って民家や寺院、宿泊施設等が立ち並ぶ。川があるからかニューデリーよりも幾分か涼しい。風が干してある洗濯物を揺らし、私を優しく撫でる。少し先に煙が上がっているのが見えた。

 

火葬場には結構な人がいた。観光客もいるが現地の人が多いようだ。ここでは写真を撮るのは厳禁とされているらしい。理由は知らない。現地の人はみな、淡々と火葬場の周りを忙しなく動いている。

 

目の前で人が焼かれている。しかし、不思議と厳かな雰囲気はなかった。川で洗濯をしている人を見るのと同じ感覚で火葬を眺めている自分がいる。何故だろう。火葬も生活の一部に組み込まれている様な、なんら特別なことではない様な、そんな風に捉えられた。死は至って当たり前のことである、そう思えた。

 

ひとつ問題があったとすれば、暇を持て余していたらしいインド人に何度も話しかけられたことだ。自分の知ってる日本語をでたらめに言っていた。怒涛のお喋りが降りかかり、厳かさとは無縁な気分になってしまった。それもあってゆっくりと思索に耽る余裕がなかった。

 

一応、そのインド人にカーストによって火葬が分けられるという話を振ってみると懇切丁寧に説明してくれた。確かによく見ると火葬の設備にそれぞれ差異がある。

 

もう少し火葬場の様子を見ていたかったが、あまりにも話しかけられてしまうからその場を離れた。

 

 

人は自分とは圧倒的に違う何かに触れた時、どうなるか。例えば、抱えている悩みが全て吹き飛んだりはしないだろうか。

 

私はガンジス川に来ることで何かが変わって欲しいと期待していたのだろうか。しかし、多分、私の中で答えは既に出ているのかもしれない。

 

津島善子「ガンジス」③ - ぽけてん

続き