ぽけてん

オタクシグナル

片翼のアイドル-Next SPARKLING‼︎-

 

 

 

 


虹と片翼のアイドルの話

 

 

 

 

Next SPARKLING‼︎

 

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ラブライブサンシャインにおける虹が意味するものってなんだろうか。私は「奇跡」または「軌跡」の象徴と思っている。Aqoursの起こした「奇跡」、Aqoursの辿った「軌跡」。劇場版の副題をこの考えに落とし込むと、「奇跡」または「軌跡」の向こう側、となる。「奇跡」の向こう側とは何か、「軌跡」の向こう側とは何か。

 

 

 

 

 

 

劇場版ラブライブサンシャインの後半、Aqours9人が浦の星に向かうシーンがあった。浦の星と対面した9人は笑顔だった。清々しいほどに。もしかしたら9人そろって浦の星を拝めるのはこれが最後かもしれない。しかし、9人は笑うのだ。終わりがきてもまた、明日が来ることを知っているから。未来に向けて歩き出さなきゃいけないから。

 

「いままでやってきたことは全部残ってる。何一つ消えたりしない」

 

千歌の辿り着いたこの答えもまた青い鳥であったといえるだろう。だからといって誰しもが辿り着ける答えではない。必死にあがいてきたAqoursだからこそ辿り着けた答えなのだ。

 

浦の星から駆け出す9人。Aqoursと思い出深い場所が次々に浮かび上がる。Aqoursに入ろうと決めた場所、心境の変化があった場所、自分の居心地の良い場所、想いを伝えた場所。Aqoursの軌跡。あがいて、あがいて、あがいて、駆け抜けてきた日々。何度でも、何度でも、紙飛行機を飛ばした。

 


けれど、照らす夕日は少しだけ切ない。

 

 


 

 

 

 

軌跡を辿ったのはなにも9人だけではない。例えば、9人が浦の星に向かう場面。バスが学校へと向かう描写は「君のこころは輝いてるかい?」のPVを想起させる。浦の星から走って海岸へ向かう時の影の描写は、TVシリーズ1期OPの終盤のカットを想起させる。夕日が照らす海岸で9人が一列に並ぶのはTVシリーズ1期EDの最後のカットを想起させる。海岸で幼少期Aqoursが描かれるのは「HAPPY PARTY TRAIN」のPVを想起させる。エンドロール前、頭上に輝きが瞬くのはTVシリーズ2期のOPの序盤の演出を想起させる。

 

そう、これらはAqoursのファンとしてラブライブサンシャインというコンテンツを追ってきた私達の軌跡を辿るような構成ともなっている。このコンテンツを追ってきた日々をふと思い出す。色んなことがあった。ファン一人一人の心に刻み込まれたAqoursの歌が色を帯びて浮かび上がる。

 


ひとつ言えることは、私はラブライブサンシャインが心から好きだということだ。そのシンプルな気持ちがとても心地よい。

 

 

 

 

 

 

物語の最後を飾ったのは「Next SPARKLING」。物語の締めくくりであり、新しいAqoursの始まりの歌。私の目を引いたのは衣装だった。片翼。とてもAqoursらしいなと感じた。ルビィは結構毒のあるデザインが好きらしいが、なるほど確かにこれは刺激的なデザインだ。ちなみに片翼は右が梨子、善子、ルビィで、左が千歌、曜、花丸となっている。

 

Aqoursの辿った道のりは非常に険しいものだった。逆境があり、苦悩があり、失意があった。それでもAqoursは歩を止めなかった。

 

「夢は夢のように過ごすだけじゃなくて 痛み抱えながら求めるのもさ」

 

私が最もAqoursの楽曲の中で好きな歌詞だ。夢を追うことは素晴らしいことだ。しかし、それは楽しいことだけではない。もしかしたら、辛いことの方が多いかもしれない。それでも、夢を追う全ての人間に輝きは宿るのだ。

 

奇跡はそれ自体を起こそうとして起こるものではない。地道に努力を積み重ねた人間にだけ起こすことの許される代物。奇跡は決して偶然には起こらない。今を全力で生きた人間が起こす必然、それが奇跡だろう。

 

片翼。それは飛べないもの、欠けているもの。足りない部分は周りが補い、支えてくれた。Aqoursだけでなく、全員で輝く。それがAqoursの物語だった。悠遊と空を飛ぶわけではない。一歩、一歩、着実に歩を進めたAqours。だからこそ、物語の締めくくりであり新しいAqoursの始まりの歌に相応しい衣装だと感じたのだ。

 

 

一方、3年生は両翼の衣装だった。6人との対比での両翼。意味するものはAqoursからの卒業、スクールアイドルからの卒業、だろうか。それぞれの進路を進む3年生の3人。沼津から飛び立つ3人にはこれ以上にない衣装である。

 

「このままずっと逃げ続けるつもりですか」

「それも悪くない」

 

イタリアでの逃避行劇は昔を思い出すようで楽しく、そして切ない、そんな構成。幼馴染だったからこそ、積み重ねてきたものも大きい3人にとって、イタリアまで来て逃げている自分たちがおかしくてたまらなかっただろう。幼い頃、鞠莉を屋敷から連れ出し、遊びまわった果南とダイヤ。鞠莉の家柄上、常にそれは抑圧から逃げるような形となった。3人は自由を求めた。そしていよいよ、3人は自由を手に入れた。しかし、3人はバラバラになってしまう。寂しくないと言えば嘘になるのだろう。けれど3人は知っているのだ。空は繋がっていることを。

 

 

 

 

 

 

TVシリーズおよび劇場版で私達が垣間見たAqoursの物語はほんの一部だ。私達の知らない景色は沢山あるし、そしてこれからもAqoursの物語は続いていく。沼津に住む彼女たちの今後を覗き見る手段はもうないが、青春の輝きは私達の胸に刻まれている。

 


アニメで観た、ライブで観た、沼津で観た、全ての景色。それは私の胸に永遠に残り、私と共に生きる景色となるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

千歌は常に自問していた。輝きとは何か、Aqoursらしさとは何か、そして新しいAqoursになるということは何か、と。

 


自問。私は画面を通して問われてる気がしてならないのだ。君は?と。

 

それはコンテンツの先の話。今度は自分が何者であるかを問う番なのだ。今度は私が答えを見出す番なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

虹って不確かなものだ。運よく見えたとしても薄くぼんやりしていることが多いし、時間がたてば消えてしまう。自然現象だから消えてしまうのは当たり前である。一方、「奇跡」も「軌跡」も人が生み出すものである。そして、「奇跡」も「軌跡」も消えることはない。永遠に人の心に残り続ける。

 


「奇跡」の向こう側とは何か、「軌跡」の向こう側とは何か。

 


多分、向こう側も変わらず同じような道が続いているのだ。劇的な何かが沢山待っているわけではない。それでも私達はその道を走り続けるしかないのだ。

 


全力で走り、生み出した虹は人の心に無限の色を重ねる。胸に手を当てればいつだって思い出せる、心に架かった虹を。

紅玉

劇場版ラブライブサンシャイン黒澤ルビィに関する雑談

 

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今回は私の心に居を構える沼津のリトルスター、黒澤ルビィのお話。

 

劇場版ではAwaken the Powerの先の物語が描かれた。劇場版の序盤、新生Aqoursのライブは失敗し、3年生の大きさを改めて実感して弱気になるルビィ。イタリアへ渡り、姉と会い、ライブを行い、帰国した。ルビィがそこで何を感じたのかは想像の域を出ないが、ルビィに心境の変化があったことは明らかだ。

 

ルビィはイタリアへ行く前、理亞と同様の問題を抱えていた。去ってゆく者の偉大さ。欠けた部分を見つめ感じる焦燥。「姉様たちはもういないの」と叫び走り去る理亞のシーン、あれは新生Aqours(と理亞)が抱える問題を顕在化させる重要なポイントであった(とはいえ、正直、海辺での理亞のシャウトは唐突過ぎて吹いてしまうが)。

 

イタリアから帰ってきた後、ルビィは自身の抱えていた問題の答えを見出したようだ。だからこそ、松月で理亞の転校の話が出た時、まっすぐに意見を言うことができた。

 

 

Awaken the Powerはルビィと理亞が手を取り合い、ダイヤと聖良を安心させるために作った曲だ。黒澤ルビィと鹿角理亞の自立の物語。ルビィと理亞が自分の内に秘めている可能性を見出す物語。

 

理亞は潰えた夢を取り戻そうと躍起になった。要領の良い人間ではないから空回りして痛々しい姿を姉に晒すことになってしまう。そこに手を伸ばしたのはやはりルビィだった。

 

 

理亞は失敗のトラウマに囚われていた。消せない過去に押しつぶされていた。夢は呪いとなっていた。

 

ラブライブ決勝。限定的に行われたその再演は理亞のわだかまりを昇華させた。輝きを求めスクールアイドルを始めた少女の末路が失意であっていいわけがない。

 

 

TVシリーズ2期8、9話が姉におんぶにだっこだったルビィと理亞が自立する物語だとするならば、劇場版は自立したルビィと理亞が歩き出す物語と捉えられる。

 

「いままで過ごしてきた全ては決して消えない」…ルビィが、理亞が、辿り着いた答えであり、この劇場版のテーマでもある。これは肯定の物語。強さも弱さも全てを受け入れてこそ、また人は一歩踏み出せる。

 

 

 

劇中、ルビィはあのお決まりの台詞を言っていない。「がんばルビィ」と。何故だろうと考えた。

 

「がんばルビィ」とはルビィの必殺技。「がんばルビィ」ってポジティブでいい言葉だ。コミックリリーフとしてではなく、純粋に自身を、他者を奮い立たせるのに有用な言葉ではないかと感じる。元々は降幡さんが言ったこの台詞を公式が逆輸入したんだっけ?

 

TVシリーズ1期1話から劇場版までを通して黒澤ルビィは大きな成長を遂げた。劇中のラスト、そこには立派にMCを務める黒澤ルビィの姿があった。「成長したね」、もうこの一言に尽きる。

 

久々にTVシリーズを見返したりスクフェスをやったりするとやや違和感を覚える。そこに気弱な小動物であるルビィがいるから。私は早くも立派なルビィが見慣れてきてしまっているのだ。そこで思った。「がんばルビィ」や「うゆ」や「ピギィ」などルビィを体よく表す言葉は結構多い。多分、ルビィはもうそういった体のよい台詞は不要なのだと。そういった飾る言葉がなくともルビィは十分に映えるのだと。自身を魅せることができるのだと。つまり、特徴づけのために生まれた口癖たちはルビィの成長によって過去のものとなった。私はそう思ったのだ。

 

 

 

 

黒澤ルビィは特段何かに秀でている人間ではない。黒澤ルビィだけでなくAqoursのメンバーの全員が普通で平凡な人間だ。ラブライブで優勝したからといって特別な人間になれるわけではない。ただ、特別な人間になれなくたって誰かの特別になれるはずだ。誰かの特別になれるようたゆまぬ努力を続けるのがスクールアイドルだ。スクールアイドルに魅せられ、スクールアイドルに焦れ、スクールアイドルになり、スクールアイドルとして走り続ける黒澤ルビィは確実に誰かの心を動かしている。そうした特別は心に降り積もってゆく。そしてそれは決して消えることはない。

 

 

 

道はずっと続いている

 

 

突如、空は闇で覆われて、平和は瓦解する。深淵に君臨するは魔王。人々は希望を求める。立ち上がる1人の少年。険しく厳しい道のりの末、少年は魔王を倒し、世界に平和が戻る。よくある冒険譚。

 


私は思うのだ。勇気を胸に激動の日々を終えた少年にとって平和な世界は退屈ではないのかと。人は夢を叶えた後、何を思うのかと。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラブライブサンシャインTVシリーズは全26話を通してずっと同じ問題提起をしていた。「輝きとは何か」と。最終話、主人公の高海千歌からその答えを提示される。

 

 

 

劇場版ラブライブサンシャインは輝きの正体を知った高海千歌のその後が描かれる。軌跡のその先の物語、夢の向こう側の物語。

 

 

 

 

劇中、沢山の沼津の風景が描かれていた。Aqoursは沼津から生まれたのだと改めて認識させるように。私は6回ほど沼津を訪れたことがあるためか、劇中の背景はその殆どが見知った景色であった。リアリティと言うと少しニュアンスがずれる。見知った景色の中を駆け抜けるAqoursの姿を見た時、まるであちらの世界の延長線上にいるかのような親近感に似た心地よさを感じた。

 

 

 

私はTVシリーズの2期はラブライブ決勝でAqoursSaint Snowが一騎打ちすると思っていた。予想は見事に外れたわけだけれど、劇場版ではその私の予想が違った形で実現する形となった。物語的に突っ込みどころがないわけでもないが、純粋に熱い展開で嬉しかった。

てか、Saint Snowの網タイツ、あれは法令違反でしょ。スクールアイドルで網タイツはちょっと破廉恥すぎませんか。佐藤日向の網タイツを想像すると…あっっっっっ!!!!!!!!

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


閑話休題

 

 

 

劇中、高海千歌が言っていたように、再スタートってのは「0」になることじゃない。

 


道は自分の前に延々と伸びている。それは平坦なものばかりではない。上り坂もあれば下り坂もある。分かれ道だってある。大変な道のりが予想される。

 


けれど、軌跡はずっと自分の胸の中にあるし、それは糧となり必ず自分を支えてくれる。始まりもなければ終わりもない、道はずっと続いているのだ。

 

 

 

 

 

 

パンフレットで酒井監督がこんなことを言っていた。

 


「世界は変わらないように見えても、自分が変われば世界は変わるんだ。」

 

 

 

冒頭の冒険譚。多分、少年は魔王がいたから激動の日々を送れたわけじゃない。自身の足で立ち上がったからこそ激動の日々を過ごすことになったのだと思う。新しい一歩は自分を変え、そして世界は変わる。大事なのはコンテンツ(魔王)ではなくて自分の心の持ちようなんだなってことですね。

 

 

 

既にAqoursが言っているように、叶えた夢の先に何があるかといえば、単純な話、新しい夢があるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


2000年代後半以降のアニメは儚く尊い物語が増えた印象がある。具体的に言うと、結末に自己犠牲を描く物語が多かった。誰かのために自身を尽くそうとするその精神は崇高だ。その精神は観る者の心を震わせ、胸を熱くさせる。人が人を想うことの儚さ尊さを再確認すると同時に、その純粋な人の強い想いに酷く焦がれることになる。

 


誰かを強く想う意思は輝かしく眩しい。その意思はダイヤモンドのようだ。何からも侵略されず、硬く、気高い。しかし一方で脆く淡い。

 

 

 

 


2010年代後半以降のアニメは自己探求の物語が増えた印象だ。様々な界隈において主人公が自己実現のために獅子奮闘する物語がよく描かれていた。

 


時代の流れなのか、主人公の生き様を通して視聴者である自身の未来を問われる作品が続出した。

 

 

 

 


私は物語が大好きだ。どんな時も空想の世界へ誘ってくれる物語が大好きだ。"だから"と言うべきか"しかし"と言うべきか、私は別に物語にメッセージ性を求めていない。勿論、メッセージ性のある物語があるならばそのメッセージ性は真摯に受け止めるつもりだ。ただ、物語とはあくまでエンターテイメントであるものだし、楽しければそれで良いと私は考えている。

 


そういう意味ではラブライブサンシャインは私の求めていた物語ではなかったが、今となってはラブライブサンシャインをなしに自分を語ることは難しいほどだ。それほど衝撃的な作品だった。

 


ど直球のメッセージは時に私を悩ませた。それでも前を向こうと強く思えた。自分も頑張ろうと強く思えた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


ただね、理屈じゃないんですよ。物語の文脈とかメッセージとか、そういうんじゃないんですよ。

 

 

 

 


正直に言います。劇場版のラスト、"Next SPARKLING"が流れた時、私は

 


「終わらないでくれ」

 


と思ってしまった。

 

 

 

どうしようもなく寂しくて寂しくて寂しくて寂しくて、仕方がなかった。Aqoursの活動はまだまだ続くけど、それでも、物語に一区切りついてしまった事実を直視できない自分がいた。

 


無重力空間に放り出されたような浮遊感が私を包んだ。

 

 

 

ただ、寂しい。

 

 

 

わかりますよ、前を向かなきゃダメだって。メッセージを真摯に受け止めて、現実を精一杯謳歌する。高尚なことです。人生万歳!!!!

 


私も虹の向こう側に行かなくてはならないんですよ。それでも、それでも、

 

 

 

 

 

 

 

 

 


今は少しだけ感傷に浸らせて下さい。

 

 

 

チューニング合わせて

 



 

「あなたの話を聞かせてよ」

 

 

 

 

 

私は人の話を聞くのが好きだ。その人が今までどんな経験をしてきたのか、その人が今どんな考え方を持ってるのか、そういう話を聞くのが好きだ。

 

人は1人として同じ人はいない。人の数だけ物語がある。

 

飲み会の席などでついつい私は聞いてしまうのだ、その人の経験を、その時その瞬間に、何を感じ何を思ったのかを。

 

 

ラジオという媒体はそういう私の願望を非常に高い水準で叶えてくれる。パーソナリティの紡ぐ言葉は電波に乗り夜のしじまを渡って私に届く。贅沢な時間が私を満たす。

 

とまぁラジオが素晴らしいと言っても私はどうしようもなくただのオタクだから今までに聞いてきたラジオの大体が声優関連だ。なので私は夜な夜な他人の人生相談に耳を傾けたり、過激な下ネタで爆笑したり、哲学的な話に唸り声をあげたりしていたわけではない。ただただ声優のわきゃわきゃトークに癒されていた。なんであれ人の内面が伺えるラジオという媒体が私は好きだという話だ。

 

ちなみに私がよく聞いていたラジオは「井口裕香のむ~~ん」、「阿澄佳奈 星空ひなたぼっこ」、「矢作・佐倉のちょっとお時間よろしいですか」、「アニゲラディドゥーーン」あたりだ。最近は芸人のラジオの方がよく聞く。

 

 

 

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LONELY TUNING」という楽曲がある。曲名を聞いた時、真っ先にラジオを思い浮かべた。今じゃ殆ど見られないが、少し前までは機器でチューニングをして漂う電波をキャッチすることでラジオを聞くのが一般的であった。夜更けに部屋で電波を合わせるためチューナーを微調整する作業は、畑亜貴"微熱"観と非常に相性が良いなと感じた。

 

歌詞を言葉通りに受け止めれば、ラジオDJのように落ち込んでいる人を音楽で元気づけてあげたい、という様に受け止められる。

 

畑亜貴"微熱"観に寄せて解釈をすれば、私の電波を受け取ってほしい、想い人に自分の気持ちを届けたいという恋に踏み出せない少女を想像することもできる。

 

この曲の主観である人物は「自分の想い」を届けられないでいる。その葛藤を描き出すのにラジオDJという題材を扱ったのは非常に上手いなと素直に感じた。

 

孤独なチューニング。

 

畑亜貴の作詞なのでどうも恋愛模様に捉えがちだが、別に恋愛だけに留まる話ではないだろう。情報が溢れかえるこの世の中で私の言葉はどれほどの価値があるのだろうか。私の言葉は誰かに届いているのだろうか。

 

 

 

 

閑話休題

 

 

 

 

 

まぁ今回の記事はLONELY TUNINGの歌詞考察をしたかったわけでもラジオについて語りたかったわけでもないんです。社会人になって関わる人が変わっていく中で、色んな話を聞いて、やっぱ人の話を聞くって面白いなって感じだからつらつらと文章を書いてみたわけです。ただ冒頭の一文を言いたかっただけなんです。

 

短いけどもう締めようかな。ひとつ加えて。

 

 

 

 

 

あなたの話を聞かせてよ

 

 

そして

 

 

私の話を聞いてよ

ちっちゃなハート、おっきな感謝

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めまぐるしく変わる景色の中で一際目立つその輝き。何故、眩しく感じるのか。知りたい、その理由を。

 

 

 

 

 

 

 

 

私は考えすぎてしまう人間だ。あれやこれ、余計なことまで考えてしまう。考えすぎて動けない、そんな人間。考えて考えて考えて考えて考えて、それで終わる。世の中って色んな制約やら都合やらが絡み合っていて思うように上手くいかないことが多い。だからこそ考えてしまう、必要以上に。

 

 

軽い人間になりたかった。皮肉ではなく、純粋に。高く飛びたかった。

 

 

 

 

私にはこれといって好きなものがなかった。沢山のコンテンツには触れていて好みの程度はあれど、"ハマる"ということがあまりなかったような気がする。所詮、コンテンツなんてものは消費物でしかないし、なにかひとつに熱中することに意義を見出せなかった。意義ではないな、ただ機会を逃していただけかもしれないし、意欲がなかっただけかもしれない。

 

 

 

 

 

 

 

ラブライブサンシャイン一期を見た時の私が黒澤ルビィに抱いた感想は、随分と遊びがいのあるネタキャラが出てきたな、だ。しかし同時に彼女は私が欲しい何かを持っている気がした。

 

何かに熱中している人間は側から見ると滑稽なものだ。でも結局のところ人って熱中できる何かを見つけたもの勝ちみたいなところがある。先程、滑稽と表現したがこれは何も持っていない人が抱く羨望の裏返しだ。

 

自分の"好き"を理解出来ている人間は強い。

 

黒澤ルビィは自分の"好き"に従い、大きく前進した。小さな彼女の大きな一歩。正直、私の目から見れば、黒澤ルビィはあまりにも幼い。しかし、眩しいのだ。"好き"を行動に昇華させた黒澤ルビィの生き様は輝きそのものだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ラブライブサンシャインにのめり込む中で私は少し動けるようになった。私にとって2017年は祭りだった。就活での苦悩。就活がやっと終わったと思えば、大学の卒業研究で研究室に縛られる生活。ラブライブサンシャイン2期が始まると同時にラブライブ一色の日々。ファンミ、浦ラジ、生放送、挿入歌CD発売、カラオケとにかくラブライブ尽くしだった。金が足りないからバイトも掛け持ちした。大学の卒業旅行もあったな(私のインドでの冒険譚はまた別の記事で書きたいものだ)。忙しかった。でも楽しかった。そう、楽しかったのだ。とても、とても、楽しかった。

 

動けると言ってもただの追っかけ行動にすぎないのはわかっている。でも、自分の"好き"に従って動くのはとても気持ちのいいことだ。

 

多分、立ち止まるから余計なことまで考えてしまうのだろう。今にして思えば私は悩むために悩んでいただけかもしれない。動けば変わる。動けば変わるのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

声優界のチャールズチャップリンこと降幡愛をご存知だろうか。人はみな彼女のことを喜劇の女王と呼び親しんでいる。私もまた彼女のファンの1人であり、独特の感性や突飛な言動に魅了されている。ただ、私が彼女に惹かれた一番の理由はそこではない。

 

降幡愛の黒澤ルビィに対する姿勢、そこに私は惹かれたのだ。ステージの上で黒澤ルビィを再現しようとするその姿勢。黒澤ルビィそのものになろうとする降幡愛の在り方は役に対し本当に真摯であり、だからこそ応援したくなった。

 

かつて降幡愛は言った、「黒澤ルビィに追いつかなくてはいけない」と。降幡愛は黒澤ルビィであると同時に黒澤ルビィに魅せられた1人でもある。役に置いていかれる感覚。その葛藤は私では想像することすら難しい。しかし、そのひとつの答えを私は見た気がする。

 

4thのテーマソングである、「Thank you, FRIENDS!!」。大サビ前に9人が順番にソロで歌うパートがある。黒澤ルビィのパートは「海風に」だ。

 

あの声

 

初めて聞いた時の衝撃は今でも忘れられない。身体に電撃が走るとはまさにあの時のことだ。

 

私が感じたのは「成長」だ。それは"黒澤ルビィ"かもしれないし"降幡愛の"かもしれない。多分どっちを選んでも意味は変わらないのだろう。あれは追いつこうと必死になった降幡愛だからこそ出せた声なのだろう。

 

私の目に映るのは、軽く、高く飛ぶ黒澤ルビィそして降幡愛の姿だ。

 

 

 

 

今は追っかけでもいい。目の前で輝いている人を応援しよう。動けるきっかけをくれたラブライブサンシャインに、Aqoursに、黒澤ルビィに、降幡愛に、精一杯の応援をしよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

4th、「く、黒澤、、ルビィです!!」から始まるいつものやつで私は心の中でこう呟くだろう。

 

 

 

感謝すルビィ

イベント上映「続・終物語」 感想

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キラキラ光ってる

気がした思い出

そばにあって触れられない

鏡の国みたい

 

 

 

 

一応諸注意

筆者は原作もパンフも未読

ネタバレあり感想

 

 

 

 

人は動いている時ならばあまり迷ったり悩んだりすることはない。人は立ち止まった時、迷ったり悩んだりする。あるいは逆かもしれない。二者択一を精査したり、最善策を熟考したり、ありえたかも知れない選択肢に想いを寄せたり、と迷い悩むために人は立ち止まるのかもしれない。

 

 

 

物語の冒頭、阿良々木暦はこのような旨の台詞を発する。

 

「これはおまけの物語。しかし、おまけといって侮ってはいけない。人は勝利より敗北から多くを学ぶように、おまけからも多くを学ぶことがあるだろう。」

 

終物語を端的に表した台詞だ。物語シリーズ終物語で綺麗に締めくくられた。まぁ原作はまだまだ続いているけど、アニメだけを追っていた私からすると一区切りついた気分だった。だからこそ「続終物語」という表題でどんな物語を展開するのかはなかなか想像に難く、やや不安を持って私は劇場に足を運んだ。

 

あえて言おう、続終物語は蛇足である。しかし、数年、物語シリーズを追ってきた人間ならば確実にぶっ刺さる物語だ。辿った物語を振り返り、それぞれの登場人物に焦点を当てる。これまでの物語の総括をしつつ、視点は過去から未来へと向けられる。阿良々木暦は新たな一歩を踏み出して物語は締めくくられる。

これはおまけの物語。阿良々木暦の停滞の物語。しかし、だからこそ、思うところが多くあった。

 

 

 

物語シリーズは純粋に人を楽しませる作品だと思ってる。含蓄のある台詞が随所に散りばめられ学ぶことも多くあると思うが、必要以上のメッセージ性はなく、あくまでエンターテイメントを確立している。その点で続終物語はやや異質である。何故なら明確なメッセージ性を持っているからだ。最後の横断歩道のシーン。あれは画面の向こう側だけで進行する話ではなく、こちら側にメッセージを投げかけるつくりになっていた。今までこのような構成をとることはしていなかったと思う。西尾維新及び製作者からの投げかけ。おまけだからこそ出来たことなのかもしれない。おまけだからこそ試みた構成なのかもしれない。

 

 

 

鏡とは現実世界をそのまま映すわけではない。鏡に映る世界は光の反射率の関係で現実世界の約80%程度だそうだ。なので鏡に映る世界は現実世界と比べるとぼやけているのだ。輪郭が曖昧になっている。約20%が削られている分。

 

物語の後半、事の真相が明らかとなる。阿良々木暦は鏡の世界に入ってしまったのではない。阿良々木暦は削られるはずだった約20%を現実世界に引き込んでしまったのだ(この辺りの解釈は正しいか自信ない。映画見返すか、原作買うかして加筆修正するかも)。よって世界は辻褄の合わない、へんてこな世界に変わってしまった。何故そんなことが起こってしまったといえば阿良々木暦"心残り"があったからという。具体的に何が"心残り"かまでは語られない。可能性を示唆して、含みを持たせて、この辺りは曖昧に表現されている。

 

阿良々木暦は激動の高校生活を終えた。様々な物語を経て、卒業式を迎えた。阿良々木暦は大学の合否発表が出るまで身分不明の状態で日々を過ごすことになる。曖昧でぼんやりとした時間。走り続けていた阿良々木暦は一旦立ち止まることになった。なので阿良々木暦は今までをふと振り返った。自分の至らなかった点、ありえたかもしれない選択肢、そういったことを考え、副産物として生まれたのが"心残り"だ。

 

 

 

人生において考えても仕方のないことって多々ある。自分の干渉できない事象、選ばなかったもう一方の選択肢、昔の自分の不始末、ありえたかもしれない未来。しかし、人は愚かだから往々にしてそういう考えても仕方のないことを考えてしまう。赤信号の横断歩道、阿良々木暦は言う、「右足から踏み出すか左足から踏み出すか、迷う時がある」と。それに対し、戦場ヶ原ひたぎは高らかに笑った。

 

考えても仕方のないあれこれについて悩むことに意味はない。悩むなと言っているわけではない。時々、立ち止まり、悩み、痛みを感じることしても良いだろう。けれど、人は人である限り、立ち止まったままではいられない。悩んでいるままではいられない。物語を進めなくてはならない。足を踏み出さなくてはならない。だって人は基本的に走り続けているものだ。

 

これが横断歩道のシーンで私が感じたメッセージである。わかりやすく普遍的なメッセージだと思う。ただ説得力があった。阿良々木暦の今までを知っているからこそ、このメッセージには説得力があった。エンドロールが流れ、劇場が明るくなり、ざわつきが起こり始めた頃、私の心は少し軽くなった。らしくもなく私は前向きな気持ちになった。物語シリーズを通してこんな気分になるのが不思議であり面白いなと思ったのだ。

 

 

 

 

離れ離れ見上げた空は

青く、青く、澄みきっていく

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さてまぁ感想は以上なのですが、1点ほど不必要な語りをしようかなと。

 

 

 

邪推。めっちゃ邪推。鏡の中の世界ではなく削られるはずの20%を引き込んだ世界に戦場ヶ原ひたぎは現れなかった。それは戦場ヶ原ひたぎに関しては阿良々木暦"心残り"がないからだと言った。しかし、こうは考えられないだろうか。削られるはずの20%を引きこんだ世界とは"裏側"が表出した世界。阿良々木暦"心残り"、パートナーとして選んだのが戦場ヶ原ひたぎで良かったのかという深層的な問い。それが表出したのではないだろうか。つまり戦場ヶ原ひたぎがいない世界で自分のパートナーを改めて考えてみるみたいな。以前から私は阿良々木暦がパートナーに戦場ヶ原ひたぎを選んだことに不満を持っていました。いやだって(略)。まぁ邪推ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

私は"それ"を虚無と呼ぶ

 

 

 

私が初めて"それ"に出会ったのはいつだろうか。「出会った」という言い方はやや間違っている。正確には「陥る」だ。

 

初めて、というと正確な記憶は思い起こせない。が、強烈な"それ"は今でも覚えている。

 

高校1年生の頃、私は遅ればせながら初めて鋼の錬金術師を読んだ。それはもう夢中になってページをめくった。なんでこんな素晴らしい漫画を今までノーマークだったんだろうと自分を殴ってやりたい気分にもなった。とにかく当時の私にとっては衝撃的な面白さだった。

 

指パッチンで目の前のものを炎で焼き尽くす妄想を2億回はした。

 

あの時はただひたすらに漫画の世界観に浸っていた。あれほど楽しい漫画体験はなかなか貴重だ。

 

当たり前だが、物語には始まりがあり終わりがある。夢中になって読んでいた鋼の錬金術師も気がつけばあっという間に最終巻。惜しみながらじっくりと読んだ。最後のページを読み、漫画を閉じた瞬間、様々な感情が私の心の中で吹き荒れた。

 

少し前まで物語の世界に浸っていたのに唐突に現実世界に引き戻されるあの感覚。心にぽっかりと穴が空く。自分の一部はあっちの世界に置いてきてしまったのではないかと思うくらいに自分の何かが欠けた気がするのだ。

 

小雨の中、傘を持たず意味もなく散歩に出かけた。外灯が降りしきる雨を浮かび上がらせる。世界の輪郭が曖昧になる。外灯の光の先に何となくエドやアルがいるような気がするのだ。

 

 

寂しさ、という言葉だけでは表しきれないような何か。私は"それ"を虚無と呼ぶ。

 

虚無は時々やってくる。その作品に没頭し、その世界に浸る。そして迎える物語の結末。虚無だ。名作を体感した後は必ず虚無がやってくる。

 

勿論、良い作品を鑑賞した後なのだから充足感もある。しかしやっぱり心の大部分を占めるのは虚無なのだ。

 

漫画にしても小説にしてもアニメにしても映画にしてもゲームにしても媒体は問わない。条件はその世界に浸ることだ。

 

私は変に真面目なところがあるからどんな作品でも鑑賞する時は真剣に向かい合いたいと思っている。漫画も小説もアニメも映画もゲームも消費物であるのは違いないけど、あまりむやみやたらに消費はしたくない。ひとつひとつの作品に対して丁寧に向かい合うことでよりその世界に浸ることができるからだ。

 

虚無がやってくるとどうしようもない気分にはなるが嫌というわけではない。むしろ良質な経験とすら思う。

 

畑亜貴に言わせれば虚無もまた娯楽なのかもしれない。

 

私は物語が好きだ。自分以外の誰かの物語がとてつもなく好きだ。その世界に浸るのが堪らなく楽しいのだ。

 

私は20と数年生きてきてそこそこの数の作品を嗜んできた。段々、刺激に慣れているところもあると思う。言ってしまえばより尖った作品を欲するようになった。ヒリヒリするような、世界観にのまれてしまうような、そんな作品を求めている。

 

あぁ、また大きな虚無に陥りたい。