ぽけてん

someone in the crowd

片翼のアイドル-Next SPARKLING‼︎-

 

 

 

 


虹と片翼のアイドルの話

 

 

 

 

 

Next SPARKLING‼︎

 

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ラブライブサンシャインにおける虹が意味するものってなんだろうか。私は「奇跡」または「軌跡」の象徴と思っている。Aqoursの起こした「奇跡」、Aqoursの辿った「軌跡」。劇場版の副題をこの考えに落とし込むと、「奇跡」または「軌跡」の向こう側、となる。「奇跡」の向こう側とは何か、「軌跡」の向こう側とは何か。

 

 

 

 

 

 

劇場版ラブライブサンシャインの後半、Aqours9人が浦の星に向かうシーンがあった。浦の星と対面した9人は笑顔だった。清々しいほどに。もしかしたら9人そろって浦の星を拝めるのはこれが最後かもしれない。しかし、9人は笑うのだ。終わりがきてもまた、明日が来ることを知っているから。未来に向けて歩き出さなきゃいけないから。

 

「いままでやってきたことは全部残ってる。何一つ消えたりしない」

 

千歌の辿り着いたこの答えもまた青い鳥であったといえるだろう。だからといって誰しもが辿り着ける答えではない。必死にあがいてきたAqoursだからこそ辿り着けた答えなのだ。

 

浦の星から駆け出す9人。Aqoursと思い出深い場所が次々に浮かび上がる。Aqoursに入ろうと決めた場所、心境の変化があった場所、自分の居心地の良い場所、想いを伝えた場所。Aqoursの軌跡。あがいて、あがいて、あがいて、駆け抜けてきた日々。何度でも、何度でも、紙飛行機を飛ばした。

 


けれど、照らす夕日は少しだけ切ない。

 

 


 

 

 

 

軌跡を辿ったのはなにも9人だけではない。例えば、9人が浦の星に向かう場面。バスが学校へと向かう描写は「君のこころは輝いてるかい?」のPVを想起させる。浦の星から走って海岸へ向かう時の影の描写は、TVシリーズ1期OPの終盤のカットを想起させる。夕日が照らす海岸で9人が一列に並ぶのはTVシリーズ1期EDの最後のカットを想起させる。海岸で幼少期Aqoursが描かれるのは「HAPPY PARTY TRAIN」のPVを想起させる。エンドロール前、頭上に輝きが瞬くのはTVシリーズ2期のOPの序盤の演出を想起させる。

 

そう、これらはAqoursのファンとしてラブライブサンシャインというコンテンツを追ってきた私達の軌跡を辿るような構成ともなっている。このコンテンツを追ってきた日々をふと思い出す。色んなことがあった。ファン一人一人の心に刻み込まれたAqoursの歌が色を帯びて浮かび上がる。

 


ひとつ言えることは、私はラブライブサンシャインが心から好きだということだ。そのシンプルな気持ちがとても心地よい。

 

 

 

 

 

 

物語の最後を飾ったのは「Next SPARKLING」。物語の締めくくりであり、新しいAqoursの始まりの歌。私の目を引いたのは衣装だった。片翼。とてもAqoursらしいなと感じた。ルビィは結構毒のあるデザインが好きらしいが、なるほど確かにこれは刺激的なデザインだ。ちなみに片翼は右が梨子、善子、ルビィで、左が千歌、曜、花丸となっている。

 

Aqoursの辿った道のりは非常に険しいものだった。逆境があり、苦悩があり、失意があった。それでもAqoursは歩を止めなかった。

 

「夢は夢のように過ごすだけじゃなくて 痛み抱えながら求めるのもさ」

 

私が最もAqoursの楽曲の中で好きな歌詞だ。夢を追うことは素晴らしいことだ。しかし、それは楽しいことだけではない。もしかしたら、辛いことの方が多いかもしれない。それでも、夢を追う全ての人間に輝きは宿るのだ。

 

奇跡はそれ自体を起こそうとして起こるものではない。地道に努力を積み重ねた人間にだけ起こすことの許される代物。奇跡は決して偶然には起こらない。今を全力で生きた人間が起こす必然、それが奇跡だろう。

 

片翼。それは飛べないもの、欠けているもの。足りない部分は周りが補い、支えてくれた。Aqoursだけでなく、全員で輝く。それがAqoursの物語だった。悠遊と空を飛ぶわけではない。一歩、一歩、着実に歩を進めたAqours。だからこそ、物語の締めくくりであり新しいAqoursの始まりの歌に相応しい衣装だと感じたのだ。

 

 

一方、3年生は両翼の衣装だった。6人との対比での両翼。意味するものはAqoursからの卒業、スクールアイドルからの卒業、だろうか。それぞれの進路を進む3年生の3人。沼津から飛び立つ3人にはこれ以上にない衣装である。

 

「このままずっと逃げ続けるつもりですか」

「それも悪くない」

 

イタリアでの逃避行劇は昔を思い出すようで楽しく、そして切ない、そんな構成。幼馴染だったからこそ、積み重ねてきたものも大きい3人にとって、イタリアまで来て逃げている自分たちがおかしくてたまらなかっただろう。幼い頃、鞠莉を屋敷から連れ出し、遊びまわった果南とダイヤ。鞠莉の家柄上、常にそれは抑圧から逃げるような形となった。3人は自由を求めた。そしていよいよ、3人は自由を手に入れた。しかし、3人はバラバラになってしまう。寂しくないと言えば嘘になるのだろう。けれど3人は知っているのだ。空は繋がっていることを。

 

 

 

 

 

 

TVシリーズおよび劇場版で私達が垣間見たAqoursの物語はほんの一部だ。私達の知らない景色は沢山あるし、そしてこれからもAqoursの物語は続いていく。沼津に住む彼女たちの今後を覗き見る手段はもうないが、青春の輝きは私達の胸に刻まれている。

 


アニメで観た、ライブで観た、沼津で観た、全ての景色。それは私の胸に永遠に残り、私と共に生きる景色となるのだろう。

 

 

 

 

 

 

 

 

千歌は常に自問していた。輝きとは何か、Aqoursらしさとは何か、そして新しいAqoursになるということは何か、と。

 


自問。私は画面を通して問われてる気がしてならないのだ。君は?と。

 

それはコンテンツの先の話。今度は自分が何者であるかを問う番なのだ。今度は私が答えを見出す番なのだ。

 

 

 

 

 

 

 

虹って不確かなものだ。運よく見えたとしても薄くぼんやりしていることが多いし、時間がたてば消えてしまう。自然現象だから消えてしまうのは当たり前である。一方、「奇跡」も「軌跡」も人が生み出すものである。そして、「奇跡」も「軌跡」も消えることはない。永遠に人の心に残り続ける。

 


「奇跡」の向こう側とは何か、「軌跡」の向こう側とは何か。

 


多分、向こう側も変わらず同じような道が続いているのだ。劇的な何かが沢山待っているわけではない。それでも私達はその道を走り続けるしかないのだ。

 


全力で走り、生み出した虹は人の心に無限の色を重ねる。胸に手を当てればいつだって思い出せる、心に架かった虹を。