ぽけてん

オタクシグナル

Melody in the line

机上の散らばった楽譜を雑にどけてマグカップを置く。鯨が描かれたマグカップからふわりとインスタントコーヒーの香りが立ち上った。伸びてきた前髪を左に流し、ベージュのコーデュロイジャケットを着る。東京に越してきてもう2年になるが、やはり海のない生活は少し寂しい。ソファーの上の新聞を手に取る。ページの隅の詩のコーナーに目を通すのが私の日課になっていた。窓からは高台の上の新興住宅地が見える。目を閉じると淡く海の景色が浮かんだ。

 

 

 

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一縷の月光が海に降り注ぐ。辺りで鈴虫が鳴き始め、命の香りが立ち上がる。夜は世界との距離がぐっと近づくような気がする。視覚情報が制限される分、嗅覚と聴覚が鋭くなるからだろうか。波音が思考を混ぜ、頭の中をガラクタがぐるぐると駆け巡る。散らばった諸々は全く組み立つ気配を見せないが、不思議と気分は落ち着いていた。身体が世界に沈み込みそうになる。砂浜を踏みしめる感覚だけが妙に鮮明だった。

 

 

 

「チャーリーパーカーだね」

彼女は一度こちらを見た後、まるで初めから僕などいなかったかのように視線を海に戻した。僕の発した言葉はぽかんと宙を舞い、そのまま触れられることもなく海風に流された。僕の声が聞こえなかった、というわけではないだろう。もう一度声をかけるか逡巡していると彼女は再びサックスを吹き始めた。記憶が砂の斜面を転がり落ちるような音色が響く。同じフレーズを6回ほど繰り返し、楽譜に何かメモをする。どこまでも広がる青い空に真っ白な入道雲が屹立していた。海を眺めていると過去の様々な情景が浮かんでは消える。果たして自分の選択は正しかったのか。それは誰にもわからない。後悔のない選択をしたつもりだが、すぐに反省したくなってしまうのは僕の意思が弱いからだろうか。視線を感じて横を向くと彼女はやや剣呑な表情でこちらを見ていた。

「いつまでそこにいるつもり?」

彼女は僕を認知できないのではないかと少し不安だったから声をかけられて少し安心した。

「流麗な音色に魅せられていただけだよ」

「あなたにこの曲の良さがわかるの?」

「勿論さ」

「これはローランドカークだけどね」

僕はゆっくりと息を吸い、寂寥を含めた笑みを作った。彼女はまた海と向き合いサックスを吹く。海は透き通っていて、小さな魚が海藻を縫うように泳いでいた。憧憬というレンズがアスファルトを突き破る雑草を映す。吹き抜ける風になんだか劇的な演出を感じた。

 

 

 

竹田屋旅館での住み込みのアルバイトを始めて2週間が経った。直近の数ヶ月間、僕は友人の家を転々と移り、現実から逃げるような生活をしていた。霧雨のようなまとわりつく焦燥感に息苦しさを感じ、走り回った末、この地にたどり着いた。労働というものに酷く抵抗感があったが、今のところ何の問題もなく働けている。抵抗感とは往々にして未知という暗闇からやってくる。形さえわかってしまうとそれは案外慣れてしまうものだ。人生を振り返ると、自分の役割はいつもどこか曖昧だったように思える。明確な役割を背負うことに意外にも心地よさを感じ、ベネット彗星みたいに身体が動いた。ハイシーズンであったから初日から目の回るような忙しさで、日々はあっという間に流れていった。

 

与えられた仕事は清掃、受付、電話対応、荷物の搬入搬出、予約台帳の管理など雑用全般である。手を動かしているだけで余計な思考から解放される。東京にいる頃は余計なことばかり考え、心をすり減らした。深淵と向かい合うことは生きる者の義務だと思っていたが、結局のところ暇を持て余していただけだったのだ。蛇の如く巻き付いていた焦りは次第に薄れていた。

 

夜番でなければ、夕食の片づけが済むと終業となる。コモンスペースでは宿泊客が麻雀をしていた。煙草に火をつけ、ゆっくりと煙を吸う。どこからか風鈴の音が聞こえた。風が涼を運ぶ。終業後は部屋で本を読むか海岸沿いを散歩して過ごした。東京の喧騒が既にはるか昔のように感じる。ここにあるのは穏やかな海と柔らかい風だけだ。

 

夜の海を眺めていると竹田屋旅館のオーナーがやってきた。白髪を短く刈り上げ、シルバーのフレームの眼鏡をかけている。浅黒い肌に白い麻のシャツが似合っていた。歳は60代くらいだろうが、姿勢が良く、鷹を思わせるその瞳があまり年齢を感じさせなかった。

「仕事は慣れた?」

「はい、ほどほどに」

オーナーは独特の雰囲気がある。気さくだが必ず人とは一定以上の距離感を保つ。いつもどこか遠くを見ているような人だ。

「今、大学生だっけ?」

「いえ、今はフリーターです。色々あって大学は数ヶ月ほど前に辞めてしまいました」

「ふぅん」

朝顔の淡い紫のような沈黙。ゆらりと煙草の煙が揺れる。

「多分、僕に足りなかったのは誠実さだったのだと思います」

「真に誠実であることは難しいよ。誰だって自分の薄っぺらさを隠すことに必死なのさ」

「そういうものでしょうか」

「うん」

潮の香りが鼻孔をかすめる。空を見上げ、デネブ、アルタイル、ベガを順に目で追った。

「東京には寂しさに溺れてしまったような人が多くいました」

「求めなければ繋がりを作ることはできない。でも、優しさだけが勝手にこぼれ落ちる」

「どうしたら人は本当の意味で心を開けるのでしょうか」

オーナーは無言で僕に小麦まんじゅうを渡した。遠くのラジオからThe Beach BoysのGod Only Knowsが聞こえる。風が膨張した空気を押し出す。揺れる前髪の隙間から自意識が僕をのぞき込んでいた。

 

 

 

彼女はいつも同じ場所でサックスを練習していた。正面には透き通った海が広がり、海岸沿いの道がゆったりとした弧を描く。天気が良いと淡島の後方に富士山が見え、雄大な景色に感情が巨大になる。同じ場所だとしても同じ景色は二度となく、空と海は刻々とその姿を変える。その景色を何時間も眺めていても飽きることはなかった。

レース装飾の入った白いシャツに山吹色のプリーツスカート。彼女はサックスを抱えながらぼんやりと考え事をしているようだった。

「ねぇ、正しくあればあろうとするほど人は孤独になると思わない?」

カモメの鳴き声がアスファルトを撫でる。

「そうかもしれない」

僕は答えながらも不思議な浮遊感を感じていた。彼女が見ている海と僕が見ている海は本当に同じ海なのだろうか。

「その行為は褒められるはずなのにどうして反対のことが起こるのかな」

「孤独であることは辛い?」

「わからない」

「でも、僕がいるよ」

彼女は何も答えず、サックスの練習を再開した。

 

 

 

三日前、竹田屋旅館の前の浜辺に突如セイウチが現れた。しかも、デカい。おそらく全長7mほどある。そのセイウチは基本的に寝ていて、時々思い出したかのように寝返りをうつ。あまりの威厳に海の主が現れたと騒がれた。

 

夜の帳が下りた浜辺を歩く。月明りが進む道を切り取り、しじま向こうに無限が見えた。僕はデカいセイウチに近づき、その躯体を観察する。オートマタのように胸部が上下していた。

僕は問いかける。

「なぁ、僕は前に進んでいるのかな?」

デカいセイウチはごろんと寝返りをうった。

 

 

 

竹田屋旅館にレコードが豊富に置いてあったこともあり、僕は少しジャズに詳しくなった。漁船の並ぶ海岸沿いの道を歩く。雲が流れ、隠れていた陽が姿を現し、蝉の合唱が祝祭のように大きくなる。額から汗が流れ落ちた。この街には青が溢れていて、喜びも悲しみも等しく染める。

 

「私は蝉のように生きたい」彼女はぼそりと言った。

「え、蝉?」

「そう、無気力に過ごす泥の人形でいるより、1週間限定で夏を盛り上げるために命を燃やし尽くしたい」

台詞とは裏腹に彼女の表情には諦念が浮かんでいた。

「僕はアリとキリギリスだったらキリギリスを選ぶよ」

8月の日差しが濃い影をつくる。人は無意識の内に世界に線を引く。その線は自分の人生を気づかぬうちに規定する。大抵は意味のない区切りであるけれど、人は線を引かずには生きていけないのだ。

「わかっているの。輝きは小さな積み重ねの先にしかないってことは」

どうしてかとても叫びたい衝動に襲われた。場所が変わろうと僕は僕でしかないのだろう。ぬるくなった清涼飲料水を一口飲んだ。

 

 

 

朝いつも同じ場所で体操をしている老人、駄菓子屋で飼われている柴犬、ムシロに並べてあるイワシの煮干し、そんな日常の風景が自分の一部となっていく、それが違う街に住むということなのだろう。陸地と淡島を繋ぐロープフェイがゴンドラを運び、空ではトンビが旋回していた。モンキチョウが気まぐれにふわふわと僕の前を飛び、黄土色のポストの上に止まった。野良猫が道を横切り、民家の中へと入っていく。時折、濃い緑の香りが流れてくる。錆びたガードレールを触ると焼けるように熱く、自分が夏のど真ん中にいることを実感する。モンキチョウは何かを思い出したようにまた飛び出した。

 

終業後、浜辺でビールを飲んだ。浜辺には殆ど街灯がないため、頼りになるのは月明りだけだ。デカいセイウチを撫でるとざらざらとした触感が伝わった。ぐるりと辺りを歩き、砂浜に腰を下ろす。後方に淡島、手前にデカいセイウチの影が連なる。秋には淡島でアケビが沢山取れると聞いたが、僕はいつまでここで働けるのだろうか。

 

「あのセイウチは何故この浜辺にずっといるのでしょうか?」

ふと思った疑問を呟いた。オーナーは視線を中空に巡らせ、少し思索に耽った。

「昔、怪異譚を集めているというお客様からセイウチの話を聞いたことがある」

何気ない疑問からセイウチの正体に急に近づけそうになり、少し身構えた。

「夢を喰うセイウチと言った」

「夢を喰う?」

神妙にオーナーは頷き、ブランデーを一口飲んだ。風鈴の音が現実感を遠ざける。

「悪さをする、というわけではないらしい」

「どういうことですか?」

「勿論、夢を持つことはいいことだ。けれど、届かないものに手を伸ばし続けることは時に苦悩を伴う。頑張っている、と聞こえは良くてもそれは幸せなのだろうか?苦悩し続けることを是としていいのか?そういう夢という奈落の井戸に落ちてしまった人間に救いを与える。それが夢を喰うセイウチらしい」

「夢を持つのも諦めるのも当人の自由だと思いますが」

「そうだね。だから求める人間のところにしか現れない。だけどもう2週間以上もセイウチが居続けるということは、当人も悩んでいるのかもしれないね」

ピリピリとこめかみが痛んだ。広大な砂漠の真ん中に立っているような無力感が身体を覆った。

 

 

 

彼女の奏でる音色を初めて聴いた時、郷愁を感じた。郷愁、といっても僕は自分の生まれ故郷を思い出したのではなく、ぽつぽつと釣り舟が浮かぶ凪いだ海と高く伸びた空が脳裏に描かれた。抑圧的なものはなく、とても自然体だった。僕はこの地に初めて訪れたが、何故か潮風や淡島や段々畑に懐かしさを覚えた。それはあったかもしれない世界線、または深層的な情景なのかもしれない。僕が大地の上に立っているのでなく、大地が僕の存在を固定しているような感覚。そんな原初の感情が僕の中を駆け巡った。

その日の彼女は浅葱色のワンピースを着ていて、景色によく馴染んだ。サックスだけが陽光を反射し、存在を主張する。彼女は分厚いファイルを取り出し、楽譜をいくつか入れ替えた。

コルトレーンも吹けるの?」

何を当たり前のことを、というような視線を投げかけ、軽やかにMy Favorite Thingsを吹いた。彼女のジャズに対する情熱はブラキオサウルスのように豪壮だった。何故そこまでジャズに熱中するのかは気になったが、彼女の優雅な演奏の前では野暮な質問に思えた。

 

「世界ってさ、不平等だと思う?」僕は言葉を選びながら喋る。

「え?」

彼女は少し困惑した表情をした。

「世界のどこにだって格差はあって人は生まれながらにそれぞれの枠組に組み込まれる」

彼女は無言で肯首した。僕は話を続ける。

「資本主義という競争社会で生き抜くには勝ち続けなければならない。けれど、人は生まれながらにスタートラインが違う。整えられた環境が違う。これって不平等?」

「平等ではない。けれど、だからといって環境を均一にすることは不可能でしょ」

「資本主義である限り格差が消えることはない。結局、誰かが上がれば誰かが下がる。限りある資源の奪い合い。でも、比べることだけが全てじゃない」

「そうかな?」そう言う彼女の瞳は純粋だ。

「だって音楽は自由だよ」

 

その日の夕日は狂ったように赤く、まるで世界の終りのような気分になった。何もかもが赤く染まる。不意に彼女が世界に溶けてしまうのではないか不安になったが、再び音色が響き渡り、僕は音楽に浸った。

 

 

 

15時頃、僕は駅前の仲見世通りを歩いていた。往来する人の間を茶葉や小豆の香りが漂う。風船を持った子供が駆け、ベレー帽を被った男は店の窓を丁寧に拭いていた。差し込む日差しが全体を白っぽくしている。おろしたてのコンバースのスニーカーは仲見世通りのタイルと相性が良いように思えた。レコードショップの前に繋がれた犬は退屈そうにあくびをしていた。地方都市の商店街にいる犬はいつだって同じ表情をしている。社会に関心を持つことと自分勝手に生きることのバランスについて考えてみたが、結論は出なかった。排他的になってしまうことは死に向かうことと同義なのかもしれない。仲見世通りの先に見える国道が陽炎で揺れている。不動産店、古本屋、和菓子屋、いくつかの店を通り過ぎ、文具店へ入った。店主と思われる老人が椅子に座っていたが、生きているのか死んでいるのかわからないほど微動だにしない。声をかけるとせせらぎのような返事が返ってきて安心した。

 

鳥籠で育った鳥は青い空に魅せられて自由を焦がれる。鳥籠を脱し、青い空へ飛び込んだとしても生きるすべを知らないからすぐに死んでしまう。だとしても、自由を求める意思が愚かだったとは誰にも言えない。

 

僕は買い物を済ませ、文具店を出た。仲見世通りに差し込む日差しを浴びながら、不毛な思考の芽を摘み取った。

 

 

 

昼頃降っていた白雨は夕方には止んでいた。雨を吸ったアスファルトの匂いの中、僕はぼんやりと淡島を眺めた。坂を転がり落ちる石を運命と呼ぶならばそんなものは蹴とばしてしまえばいいのだ。

 

その日彼女はNow's The Timeを吹いていた。一通り演奏を終えると、サックスをケースにしまい、帰路につこうとした。

「君に恋文を書いたんだ」

「私に?」

僕は若草色の封筒を渡した。彼女はしげしげと封筒を眺めた後、封を開け始めた。

「今読むの?」

「うん」

 

 

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君へ

 

紺碧の空に一片の雲もなく、内浦に魅せられている日々。

 

世界は記号で溢れていて、それは確かにわかりやすくはあるのだけれど、

現実感だけがそぎ落とされている気がする。

 

君のサックスがその違和感に形を与えた。

 

僕が見たい空と君が見たい空には差異があるのだと思う。

 

それでも僕は君と同じ月を見たい。

 

黒い池をのぞき込んだ時に自分が映るとは限らないように、

跳梁する獅子には祝祭の鐘が鳴る。

 

正しさは個人の内側に帰結する。結局、自分の心に従うしかないのだ。

 

もし僕が鯨だとしたら君の内側にいる悪い蟲を全て潰してしまうだろう。

 

たとえそれがエゴだとしても。

 

真摯であれば心はそれを返す。そう思わない?

 

僕より

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「あなたには詩の才能があるのかもね」

「そうかな」

頭の中で彼女の奏でるサックスの音色が鳴り響いていた。

「ありがとう」

彼女は柔らかい表情でそう言うと踵を返して去っていった。

 

 

 

朝起きるとデカいセイウチはいなくなっていた。もっと寝心地の良い浜辺を探して旅立ってしまったのか、それとも誰かの夢を喰ってしまったのか。デカいセイウチのいない浜辺は妙に広く感じた。

 

 

 

カモメの鳴き声が遠く聞こえる。煙草の残りの本数を数えていると少し懐かしい音色が頭の中を通り過ぎた気がする。海辺の道を歩く。後になってから彼女が上京したことを噂で知った。赤のアクセラが西浦方面へ走り去るのを見ながら僕は蝉の生涯について考えた。数年もの間地面の下にいて、やっと地面から這い出たと思ったら、力の限り叫び、すぐに死んでしまう。それを切ないと思うか煌めきと思うか。どちらにしてもたいした違いはないのかもしれない。ふと、公募に詩でも応募してみようかと思った。それは悪くないような案に思えたし、何よりここの海は僕を少し饒舌にさせる。桟橋を走り、僕は海に飛び込んだ。