何をしても満たされない気分なのは何故だろう。深酒して暴れ回ってもなんだか気分が晴れない。
なんとなく要因がわかるようなわからないような。でも結局、要因がわかったところで何も変えられない、変わらない。
そんな鬱々とした気分がずっと続いてると疲れてきてしまう。どうしてもっと陽気に生きられないのでしょうか?陽気ってそもそも何?
この前の金曜日、外資のクライアントからのメールが「それでは良い週末を。」で締められていた。すげーかっけぇなと思った。
この前長文の英語のメールが来てキレながら日本語で送ってくださいって返信したりもしたけど。やっぱ次は外資行っちゃおうかな〜♡
朝、ジムでランニングしてから出社するんだ♪
ハロー!アイアムピンクチケット!キャンアイセックスユー?
暑いと食欲が消失しちゃうよね。去年はとりあえず無理矢理食べてたりしたけど今年はもう色々モチベがないため全然食ってない。ビール一杯飲むと満足しちゃうんだよなぁ。残業してろくに夕飯も食わずに寝ちゃうのちょっと怖いんだよね。急に身体ぶっ壊れそう。一人暮らしって誰も注意してくれないからさ、自分で頑張るしかないわけだ。自由には責任が伴うのだよ。
Netflixでミッドナイト・ゴスペルを視聴した。「見る麻薬」なんて感想を言われたら見るしかないじゃないですか?
一通り見て、絶叫した。まぁ僕にはやや難しかったけど。ちょびっと感想ブログとか漁ってみて、あ〜そういうことなのね、と驚いたりしてました。
個人的に二話が印象的だった。ゲストの作家が「禁酒をしてアルコール依存から脱したら狂った自分でなくなり良い作品が書けなくなるのではないか?」と懸念を持ったことがあると言う。
「元気で幸せになるとつまらなくなる」という思考はエゴなのか?
どうなのだろう。
僕はピカソのゲルニカが好きだ。悲劇、狂気、苦痛が濁流のように襲ってくる。一目で理解できるシンプルさもゲルニカの魅力だ。この絵の意思は国境を越えて伝わる。
スペイン内戦があってこの絵は生まれた。負の感情を元に描かれた。では、もし内戦がなかったらピカソはこれほど魅力的な絵を描けなかっただろうか(ピカソの魅力的な絵はゲルニカだけではないが)。ピカソが現代に生まれたら、何不自由のない生活を送っていたら、これほど魅力的な絵を描くことは可能だっただろうか。不毛なifだ。
結局、アウトプットとは外部環境に依存する。作品は往々にして世相を反映する。だからなんだという話なのだけれど。
7/11に「真っ白なキャンバス」のライブに行ってきた。このコロナ禍でよくライブを決行してくれたもんですよ。会場はTSUTAYA O-EAST。オルスタの治安の悪い会場というイメージしかなかったから等間隔にパイプ椅子が並べられててひっくり返っちゃったよね。
僕が「真っ白なキャンバス」に興味を持ったのはYouTubeに上がっていたコールMIX動画からだった。こんな無茶苦茶なライブがあるのかと惹かれ、勢いでライブに足を運んでしまった。そのライブは動画で見た通りの無法地帯であまりにも楽しかったのを今でも思い出す。ライブが日曜日だったせいで月・火・水曜日ずっと声が出なくなってしまったのはそこそこ焦った。クライアントから電話がかかってきた時は先輩に携帯を押しつけていた。
まぁそんな騒げる場所を提供してくれる、という意味で「真っ白なキャンバス」を好きだったから、お行儀良く座ってライブを観ることが実に奇妙であった。勿論、コールも禁止だ。僕はなんのためにここにいる…?
「真っ白なキャンバス」に限らず、当分の間のライブイベントは上記のような感じになるのだろう。なんて退屈な。仕方のないこととはわかるけど。
お行儀良く座ってライブを観ることを是とするかはともかく、これからライブの在り方も変わっていくのだなぁとしみじみ思った。
僕の会社の社長は「back normalではなくnew normal」と言っていた。
new normalって言い方なんかずるいよね。正論なんだけどさ。

これは暑さにぐったりする犬