紅玉
劇場版ラブライブサンシャインの黒澤ルビィに関する雑談
今回は私の心に居を構える沼津のリトルスター、黒澤ルビィのお話。
劇場版ではAwaken the Powerの先の物語が描かれた。劇場版の序盤、新生Aqoursのライブは失敗し、3年生の大きさを改めて実感して弱気になるルビィ。イタリアへ渡り、姉と会い、ライブを行い、帰国した。ルビィがそこで何を感じたのかは想像の域を出ないが、ルビィに心境の変化があったことは明らかだ。
ルビィはイタリアへ行く前、理亞と同様の問題を抱えていた。去ってゆく者の偉大さ。欠けた部分を見つめ感じる焦燥。「姉様たちはもういないの」と叫び走り去る理亞のシーン、あれは新生Aqours(と理亞)が抱える問題を顕在化させる重要なポイントであった(とはいえ、正直、海辺での理亞のシャウトは唐突過ぎて吹いてしまうが)。
イタリアから帰ってきた後、ルビィは自身の抱えていた問題の答えを見出したようだ。だからこそ、松月で理亞の転校の話が出た時、まっすぐに意見を言うことができた。
Awaken the Powerはルビィと理亞が手を取り合い、ダイヤと聖良を安心させるために作った曲だ。黒澤ルビィと鹿角理亞の自立の物語。ルビィと理亞が自分の内に秘めている可能性を見出す物語。
理亞は潰えた夢を取り戻そうと躍起になった。要領の良い人間ではないから空回りして痛々しい姿を姉に晒すことになってしまう。そこに手を伸ばしたのはやはりルビィだった。
理亞は失敗のトラウマに囚われていた。消せない過去に押しつぶされていた。夢は呪いとなっていた。
ラブライブ決勝。限定的に行われたその再演は理亞のわだかまりを昇華させた。輝きを求めスクールアイドルを始めた少女の末路が失意であっていいわけがない。
TVシリーズ2期8、9話が姉におんぶにだっこだったルビィと理亞が自立する物語だとするならば、劇場版は自立したルビィと理亞が歩き出す物語と捉えられる。
「いままで過ごしてきた全ては決して消えない」…ルビィが、理亞が、辿り着いた答えであり、この劇場版のテーマでもある。これは肯定の物語。強さも弱さも全てを受け入れてこそ、また人は一歩踏み出せる。
劇中、ルビィはあのお決まりの台詞を言っていない。「がんばルビィ」と。何故だろうと考えた。
「がんばルビィ」とはルビィの必殺技。「がんばルビィ」ってポジティブでいい言葉だ。コミックリリーフとしてではなく、純粋に自身を、他者を奮い立たせるのに有用な言葉ではないかと感じる。元々は降幡さんが言ったこの台詞を公式が逆輸入したんだっけ?
TVシリーズ1期1話から劇場版までを通して黒澤ルビィは大きな成長を遂げた。劇中のラスト、そこには立派にMCを務める黒澤ルビィの姿があった。「成長したね」、もうこの一言に尽きる。
久々にTVシリーズを見返したりスクフェスをやったりするとやや違和感を覚える。そこに気弱な小動物であるルビィがいるから。私は早くも立派なルビィが見慣れてきてしまっているのだ。そこで思った。「がんばルビィ」や「うゆ」や「ピギィ」などルビィを体よく表す言葉は結構多い。多分、ルビィはもうそういった体のよい台詞は不要なのだと。そういった飾る言葉がなくともルビィは十分に映えるのだと。自身を魅せることができるのだと。つまり、特徴づけのために生まれた口癖たちはルビィの成長によって過去のものとなった。私はそう思ったのだ。
黒澤ルビィは特段何かに秀でている人間ではない。黒澤ルビィだけでなくAqoursのメンバーの全員が普通で平凡な人間だ。ラブライブで優勝したからといって特別な人間になれるわけではない。ただ、特別な人間になれなくたって誰かの特別になれるはずだ。誰かの特別になれるようたゆまぬ努力を続けるのがスクールアイドルだ。スクールアイドルに魅せられ、スクールアイドルに焦れ、スクールアイドルになり、スクールアイドルとして走り続ける黒澤ルビィは確実に誰かの心を動かしている。そうした特別は心に降り積もってゆく。そしてそれは決して消えることはない。