ぽけてん

someone in the crowd

ビジネスダンス

僕は医薬品の安全性や有効性を調査する企業に勤めている。治験、つまり医薬品開発に携わる。

業務は製薬会社から受託する。受託範囲は様々だが、基本的には使用された治験薬のデータの解析が主な内容となる。

研究所で試験管を睨むわけでなければ、施設で患者に投薬するわけでもない。得られたデータを見るのが仕事だ。ずっとオフィスワーク。

業務はざっくり2つに分けられる。データ整理とデータ集計、川上と川下。僕の所属する部署は川上にあたる。

統計学を習ったことがあれば知っているかもしれないが、解析を行うにあたって得られたデータをそのまま使うのはなかなか難しい場合が多い。解析を意味のあるものにするためデータを綺麗にしなくてはならない、それがデータ整理。(勿論、データ改竄ではない)

 

 


どこまで確認するべきかという線引き。どんな仕事にも似たり寄ったりの疑義が生まれるとは思うが、その判断は結局のところ当人次第である。

データ整理という観点で言えば、どこまでデータの整合性を見るべきか、と悩むタイミングがしばしばある。業務を進めていれば見積り段階では想定していなかった部分でデータ不整合が発生する。その際、いくつかの選択が生まれる。
①想定外の部分もデータの整合性を確認する→確認する工数(費用)はどうなる?→再見積りする?あるいはサービスで対応?
②見積りでそこまで見ることになっていないから確認不要と判断する→データの信頼性は?仕事の矜持は?


僕の仕事は最終的に医薬品の安全性や有効性の担保となる。添付文書の内容に直結するのだ。

想定外の部分の確認は労力がかかる。再見積りなんてクソめんどい。一方、不整合部分を見逃した場合、これから世に出る薬の信頼性を大なり小なり脅かすことになる。

全ての物事がそうであるように、この選択に答えはない。べき論で言えば①を選択となる。ただ、なんでもかんでも見積り外の確認を行った時、プロジェクトはあっという間に赤字になる。あくまでも我々はビジネスをしている。利益なしに存在は不可能だ。

 

 


仕方がないと言えばそれまでだが、不整合に気付ける人間、気付けない人間がいる。個人の検知力の差異がデータの品質を揺らがせる。

社会システムは人間が利便的に過ごすために作られた。生活は豊かになった。医療業界も進歩が著しい。けれど、人が仕組みを構築する以上、絶対は存在しない。どうしたって漏れは生まれる。

 

 


人は意識的にも無意識的にも線を引く。ここまではやるべきだ、ここからはやらなくていい。それには本来、客観性や論理性が求められるはずだが、実際のところ曖昧に処理されることが多い。

何が最善か。検討し検証し納得のいく選択をする。僕は答えが欲しいのではない、納得できる選択が欲しいのだ。しかし、この線引きは困難を極める。納得よりは妥協が先行する。何よりこんなことを考えているといつまで経っても残業が減らない。なんだかお遊戯会で不毛なステップを踏み続けている気分だ。

 

 


僕は悩んだ。悩んだ末、「パラディゾ プロジェクト 〜ナマケモノナースと癒しの寝床〜ナマケモノの獣人ナース (CV:諏訪ななか)」を聴くことにした。