ぽけてん

someone in the crowd

白い塔

 

問いかけなければ答えは出ない。ベレー帽を被った熊が頭の中をぐるぐると回る。夜の学校は異様に静かで、虫の鳴き声が妙に大きく聴こえた。これは本当に届くのだろうか。そんな疑問が浮かんでは消え、次第に闇夜に溶けていった。


 

 

 









1974年。肥大した風船は次々に破裂したが、熱に浮かされた人々は目的もなく進行を続ける、そんな時代。

 





ライ麦畑でつかまえて


6 年前の冬、三島大学でバリケード封鎖が行われた。今ではもうあまり聞かなくなったが、5,6年前の学生運動最盛期には東京を中心バリケード封鎖が頻発していた。

三島大学の学生会館の管理運営権を巡り、1500人の学生の参加を得て、全共闘と大学側が争議した。しかし、要求は受け入れられず、全共闘バリケード封鎖を決行。その後、団交が重ねられ、学生運動史上稀なことに要求が通り、バリケード封鎖は解除された。

学生運動のブームが過ぎつつある現在も沼津市民の若者は血気盛んだ。彼らは知っているのだ、動けば変わるということを。



連合赤軍あさま山荘に立て篭り、オイルショックで経済は荒れ、僕は高校で3度目の春を迎えた。僕の通う静真高校は沼津市内の自由な校風を持つ進学校だ。ベ平連のビラが撒かれ、吸殻の残火でボヤが起こり、教師がマリファナで捕まった。

そして僕はあの子と対面する。



僕はベースを担いで校内を歩いていた。今は特定のバンドには所属していないが時々ライブの誘いを受けてバンドに参加していた。
「それサリンジャーでしょ」
後ろから声をかけられた。ふり返るとそこには希望がいた。つまり、静真高校の美少女・黒澤麗子がいた。何故こんな美少女が僕に話しかけたのか全くわからず混乱しかけたが、一瞬前にかけられた言葉を思い出し我に返った。
「よくわかったね」
僕のベースケースには"I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes"と書いてあった。サリンジャーの作品の引用だ。
サリンジャー好きなの?」
「まぁまぁだね。黒澤は?」
「私は好きだよ。作品はあんまり読んだことないけど」
ふと、黒澤麗子は窓の外を眺めながらアンニュイな表情でこう言った。
「ねぇ、世界に不満があるのに目と耳を塞いで口をつぐむのは悪いこと?」
「さぁ。でも自分が変われば世界も変わるんじゃないかな。」
「永井は世界を変えたい?」
その問いに僕は答えられなかった。ベースケースに書いたサリンャーの作品の引用に僕は過ごし加筆をしていた。

"I thought what I'd do was, I'd pretend I was one of those deaf-mutes"

"or should I?"







●デイドリーム


この頃の男子高校生は大体2つに分類できた。東京の過激な学生運動の熱に浮かされた政治かぶれ、海の外の音楽に魂を掴まれた音楽家きどり、の2つだ。ハイブリットなやつもいたし、どちらにも属さない用途不明な有象無象もいた。

大概の人間は楽器をやればモテると信じていたし、僕も例に漏れず、高校に入学してすぐにバンド「デイドリーム」を結成した。貯金をはたき、ベースを買った。みな、ライブハウスでビートルズストーンズ、レッドツェッペリン、ヴェルベットアンダーグラウンドを演奏した。英語なんて何にもわからないくせに僕らは楽器を弾き、歌を響かせた。勢いだけが僕らの強みだった。

僕とボーカル&ギターの本田哲平はバンドの練習とディスコ通いに明け暮れた。僕らは女を作るためにとにかく必死だった。男子高校生にとって女を作ること自体が何よりのステータスであるからだ。沼津のディスコには脅威の美女率を誇る浦の星女学院の女学生がよく現れる。浦の星女学院は沼津からバスで40分もかかる場所にある私立の女子高だ。何故そんな辺鄙な場所にある高校に美女が多いのか全くの謎だがそんなことはどうでもいいのだ。美女が刺激を求めて沼津のディスコにやってくる、その事実だけで僕らは浮かれた浦の星女学院の美女を求め、ハイエナのようにディスコを徘徊していた。ディスコで女を捕まえるのは意外に大変だった。僕は鼻にピアスをした妖艶な女にマリファナを売りつけられそうになり、テッペイはゲイに40代のゲイに追いかけ回された。

高校1年の冬、僕らはゲリラライブを目論んだ。開催場所は学校の体育館。水面下で多くのバンド仲間を巻き込み、準備を進めた。テッペイは兄の大学の印刷所でゲリラライブ用のチケットを用意した。体育館を占拠し、ライブを決行した。準備を入念に行ったこともあり、生徒は結構集まった。3曲目が終わるころ、教師がやってきてゲリラライブは中断され、僕らバンドメンバーは1週間の停学処分となった。

ゲリラライブにより僕らのバンド「デイドリーム」は静真高校で一躍有名となった。校内で色んな人間に声をかけられ、気分が良かった。停学を終えてから数日後、僕らは上級生に呼び出されてリンチにあった。出る杭は打たれる、そんなつまらないことを学んだ。

「カズオ、大事なのは理屈じゃない、ロマンだ」
テッペイはよくこう言った。僕もその感覚はよく理解できた。理屈は人を縛る。高く飛びたいならロマンを描くべきだ。

一般的にバンドが解散する理由の殆どは女だ。僕らも全くその典型だった。高校2年の春、僕とテッペイは1人の女子を取り合い喧嘩になった。渦中にいたのは浦の星女学院の女学生だ。夢の蕾のような瞳を持ち、聖歌隊に所属するその女学生は僕とテッペイを真に狂わせた。喧嘩は日に日に激化し、僕らの間には底の見えない溝が生まれ、バンドは解散となった。




 



●神のみぞ知る


思い返せばその日が僕の高校生活のターニングポイントだったように思う。梅雨が明け、強い日差しが降り注ぐ。ビートルズのベストアルバム「赤盤」「青盤」が発売され、リバイバルブームが世間を覆っていて、僕は高校2年生だった。おい、と声をかけられた。家島大河がそこに立ち、僕を睨んでいた。タイガと会話をするのはこれが初めてだったが、僕は彼を知っていた。問題児としてタイガは有名だった。

タイガは弁論部という名の笠を被った政治に積極的な連中が集まる組織に属していて、曲者の多い弁論部の中でも極めて異質だった。1週間に1度は校内にタイガの怒号が響く。極めて短気なのだ。本人に言わせると激情家だそうだが。ゲバラを崇め、ベトナム戦争糾弾する。悪目立ちをして初めは先輩達に目をつけられ、いざこざが起きたらしいが、タイガの破天荒さに先輩たちが手を引くようになったらしい。父親が沼津では名の知れた陶芸家のくせに息子であるタイガはとんでもない暴れ者というギャップもまた怪奇である。人はみな口をそろえてタイガを狂犬と呼ぶ。タイガなのにイヌなのだ。

さて、何故僕が声をかけられたかというと、タイガが持っている書籍を見てピンと来た。持っていたのは「マルクス主義の実現」という分厚い書籍だった。タイガが裏表紙裏を開くと、「ねだるな、勝ちとれ、さすれば与えられん」とマジックペンででかでかと書かれていた。僕が書いたものだ。
「永井、お前が書いたんだろ?」
「何故?」
「この本からピースの甘ったるい香りがする」
本当に犬か、と吹き出しそうになった。確かに僕は父の持っているピースをくすねては時々吸っていたが、それだけで僕と判断するのは材料が少なすぎる。しかし、ここでしらばっくれて引いてくれる相手ではないだろう。僕は問いかけに肯定した。
「お前はマルクス主義者か?」
「いや、全然。夢物語ばかりを語る連中は好きじゃないね。それも目を覚ますようにと願いをかけた落書きだ」
「何?」
タイガが険しいオーラを纏う。タイガがマルクス主義に傾倒していることは知っていた。
「資本主義は優れているよ。問題は贅沢に胡坐をかいているやつらさ。富と既得権益を抱え込んで何もしないやつらはぶっ殺さなくちゃならない。どんな制度にだって汚点はある。」
「資本主義である以上、貧富の差は拡大し続ける。生まれた場所が違うだけで富に胡坐をかくゴミもいればまともに教育すら受けられない人間がいる。あまりに不平等だ。」
「完全な平等なんてあるわない。偏りを調整するよう善処するのが世代に生きる人間の責任だ」
ふん、とタイガが鼻を鳴らす。どうやら虎を上手くいなしたらしい





意外なことに、本当に意外なことに、僕とタイガは世界観が結構似ていた。つまり、音楽や映画の好みが近かったのだ。僕らはビーチボーイズの新譜を聴き回し、デニス・ホッパーの映画を一緒に観に行った。

タイガと親睦を深めたことで教師から不必要にやっかまれるようになった。以前のゲリラライブの決行から僕はあまり教師から好かれていないこともあり、問題児同士が手を組んだと思われたのかもしれない。

それ以降、高校生活の殆どをタイガとつるんで過ごすようになる。

 

 






●風に吹かれて


新宿は煌びやかだった。内浦を田舎と笑い、沼津を都会と信じていた自分が酷く矮小に思えた。ネオンで街は彩り、ストリートミュージシャンはボブディランを弾き、道行く人はみな洒落ていた。レコード店の品揃えは無限であり、僕とタイガは何時間も店内を彷徨った。

レコードを数枚買った後、僕らは歌舞伎町を闊歩した。将来絶対新宿に就職する、とタイガが言い、僕は全面的に同意した。

新宿に来たのには理由があった。マルクス主義に最も近い男・六地蔵洋平が新宿で街頭演説を行うと知ったタイガが僕を半ば連行するかたちで連れてきたのだ。

街頭演説の行われる広場に向かう途中、僕はとある看板と邂逅した。突然立ち止まった僕をタイガは怪訝そうに見た。そこには「ストリップショー」と書かれていた。映画でしか見たことないストリップ劇場の刺激的な光景が脳内を駆け巡り僕は動悸が激しくなった。これを人は運命と呼ぶのかもしれない。
「2時間後、またこの場所で会おう」
「おいおい、カズオ、正気か?」
僕らは別々の道を歩んだ。大丈夫さ、この空は繋がっている。


ストリップショーから戻ると何故かタイガと見知らぬ男が掴み合いの喧嘩をしていた。僕は慌てて止めに入る。とんだトラブルメーカーだ。

日本大学共産主義者同盟叛旗派って言うから話を聞いてみたらとんだ腰抜け論理を掲げていたからムカついて殴った」
「無茶苦茶な」

街頭演説の感想を聞くとタイガは高揚した顔で来てよかったと語った。
「そっちこそどうだったんだ」
タイガがあまり興味なさそうに僕に聞く。
「いやぁ、こっちも最高だったよ」
僕はさっきまで見ていた激しい桃色の光景を思い出し、うっとりとした。



半分ほどを露出させエロい匂いを撒き散らす女達が路上で炊き出しを行っていた。僕らは金がないうえ、非常に腹が減っていたから吸い寄せられるようにそこに向かった。街灯の光を照り返す尻を近くで見たかったのもある。聞くと近くのキャバクラの嬢だそうだ。新宿はキャバ嬢が路上で炊き出しをするような街なのだ。
「なんでこんなところで炊き出しを?」
「胸張って良いことをしたって言える経験が欲しくてさ」
キャバクラのサービス券を貰い、僕らはその場を去った。豚汁がとても心に沁みた。



 

 



●キャサリン


あの日以来、黒澤麗子のことばかり考えていた。脳裏に黒澤麗子の顔が浮かんでは消え、僕は身悶えた。何故、美少女というのは男の心をこうも躍り狂わせるのだろう。

どうすれば黒澤麗子の気を引けるか、そればかりを思案した。黒澤麗子は校内で人気だった。美少女で頭も良い。それにサリンジャーが好きだ。

黒澤麗子は旧網元の家系の娘だ。演劇部に所属し、嵐が丘でキャサリンを演じていた。

高嶺の花

育ちの良いお嬢様とバンドかぶれの僕では断絶が大きい。しかし、蛮行だとしても崖を登るのが男である。

サリンジャーという唯一の突破口のおかげで僕は時々黒澤麗子と雑談を交わす機会を得た。サリンジャーを貸したり、他の好きな作家をおすすめしたりした。
「最近、ジュールヴェルヌを初めて読んだわ」
「ジュールヴェルヌいいよね。読んでいると想像力がどこまでも広がる気がするよ」
「信じたいよね、未知の海底生物も宇宙の文明も」
ジュールヴェルヌは一冊も読んだことがなかった。僕は書店へと駆け込み、数日部屋に篭り海底二万海里地底旅行を熟読した。





 



クレイジー・ダイヤモンド


ボロアパートの共同トイレで目を覚ます。僕とタイガは三島大学に所属している先輩、山口俊樹の家に時々転がり込んだ。トシキさんは静真高校の卒業生で僕がバンドをやっている時に知り合った。トシキさんやその友人らと安酒を飲みながら、ゴタールやチャップリン、ジミ・ヘンドリックスピンク・フロイドについてよく語り明かした。

その日、僕は勢いよく酒を呷っていた。三島大学の絶世の美女、上坂優子をどうやって口説くか、論議はヒートアップしていた。上坂優子はヘップバーンを思わせる端正な容姿を持ち、キャンパスを歩くだけで誰しもの視線を奪う。僕も三島大学のキャンパスに数回忍び込み、上坂優子を拝んだが、本当にハリウッド女優のようなオーラを纏っていた。各々、シチュエーションと口説き文句を力説しては全方位から批判される、という茶番を繰り返していた。目が回り、頭がぐらぐらした。よろけながら外へ出た途端、胃からいろんなものがこみ上げてきて、僕は全てを吐き出した。頭が割れるように痛い。この苦しさが生きるということなのかと漠然と悟り、自分の吐瀉物を抱きながら眠りについた。

二日酔いの身体を引きずりながら共同トイレを出て、トシキさんの部屋へと戻る。カビた食パンとハエの群がるカップ麺の容器を横目に水を飲む。差し込む朝日がいやに眩しくカーテンを閉じた。



 





キュビズム


家のベランダから不思議な建物が見える。円柱状で、窓がなく、近未来を思わせる白い塔だった。物心ついた頃から眺めていたそれをなんのための建物かと疑問を持つことすらなかった。中学2年のある日、その建物がラブホテルだと知った時、僕は言いようのない嫌悪感を覚えた。雑居ビルの裏側で黒人米軍とベタベタ抱き合う若い女を見た時のような。苦い味が薄く口の中に残り続ける。




僕はサリンジャーが好きだ。相当な数のサリンジャーの小説を読んだが、その半数は万引きして手に入れたものだった。思い返しても自分の人生史で最も多感で最も読書家だった中学時代に、僕はサリンジャーによって人格を形成された。しかし、そんな人格も犯罪行為から作られたものと思うといささか今後の人生が心配になる。サリンジャーは偉大だ、しかし、僕の人格は汚れている。

その日のことはたまに思い出す。朝、昇降口で話したこともない女子から小さな紙切れを貰った。それを開くと、「万引きがばれたかも」と記されていた。教室に入る直前、僕は教師に腕を掴まれ、別室へ連行された。万引き犯全員同時に1人1人事情徴収が行われた。僕らは大体4,5人でつるんで万引きをしていたため、正直なところばれるのは時間の問題だった。僕は嘘を交えながら聞かれたことに淡々と返事をした。規律の厳しい、真摯な校風の中学校であったため、教師は異生物を見るように僕と対面していた。午後、改めて万引き犯全員集められた。粗暴なことで有名な体育教師がそれぞれの発言に食い違いがあると怒鳴り、僕ら1人1人を殴りつけた。

万引きがばれた夜、母は泣いていた。申し訳なさを感じ僕も泣いた、なんてことはなく、早く家を出て自由になりたいと強く思った。誰かの庇護下で生きることはとても窮屈だ。これが反抗期なのだろうか?だとすれば反抗期とは酷く苦しい感情だ。リビングの机で説教を続ける父の顔がキュビズムのようにぐにゃぐにゃに歪む。空には見たことのない月が浮かんでいた。

目立つことをすればモテる。それを僕は実体験として感じていた。事情徴収の翌日、周囲の反応は様々だった。その多くは僕を遠巻きに眺めていた。それもそうだ、正しく、厳格なこの中学校の風紀を乱したのだから。好奇心を抑えられない数人が僕のところにこと次第を訪ねてきた。僕は誇張を加えながらことの顛末を大きな声で何度も喋った。次第に僕の周りには囲いが出来ていた。卒業までに僕は5人の女子から告白された。目立つことをすればモテる。僕が中学時代に得た最も大きな学びだ。

 

 





●ミステリーサークル


一度だけタイガの家に行ったことがあった。陶芸家の家というだけあり、立派なアトリエがあった。沢山の陶器が並べてあり、その中にはタイガの作ったのもあった。シンプルな器や水差しだった。
「もっと荒ぶったのを作ってると思ってた」
「性格と創作物は直結するものでもない」




「なぁ、宇宙人っていると思う?」
「またジュールヴェルヌの話か」
 最近の僕の会話のレパートリーは黒澤麗子とジュールヴェルヌだった。
「いると信じていればいる、そういうものだと僕は思うのさ」
 「イマジネーションは無限」
 「だから僕は宇宙人になろうと思う」
タイガは怪訝な顔した。
「校庭に巨大なミステリーサークルを描く。宇宙からのメッセージだ。日本中が恐れ慄くだろう」
「大変そうだな」
「なんで他人事なんだ。タイガも一緒にやるんだよ」
 「黒澤麗子に気を狂わされた哀れな男に手を貸す理由はない」
 「違う。大事なのはメッセージだ」
「メッセージ?」
 「何故、日本人は贅沢に胡座をかき、野生の牙を失ってしまったのか。柔らかい肉を食べ、アメリカの顔色ばかり伺う。あまりに醜いだろう?」
「急になんの話だ?」
「現代に足りないのは危機感だ。目先の快楽に溺れ、怠惰に沈む。小さな箱に閉じ籠り、目も耳も塞いでいる。日本人は思い出す必要がある、自分に牙があるということを」
僕は少し身を乗り出し、タイガは少し身を引く。
「つまり、得体の知れない恐怖、宇宙人の襲来で日本人に今一度危機感を覚えさせ、牙を取り戻させるのだ」
「意味不明だ」
「なにより、」
僕は勿体ぶって間を開けた。
「面白そうだろう?」



 





●イマジン


七夕の日はいつも曇り空だ。そんなことをぼんやり思いながら僕は学校の塀をよじ登った。時刻は23時25分。



「決行は2週間後の日曜日、7月7日。やることは巨大なミステリーサークルを校庭に描くこと。それだけだ」
 僕は超怪奇全書という分厚い本の表紙をばんばんと叩きながら語った。
「それだけでいいのか?窓を割ったり声明を壁に書いたりしないのか?」
「違う。僕らは反抗期真っ盛りの不良でも革命を目論む思想犯でもない。大事なのは動機も意図もぼやかして本当に人間の仕業なのか疑わせることだ。奇妙さだけを残す」
「そんなに可愛いのか、その黒澤麗子という女は」
アメスピを吸いながらトシキさんが話の腰を折る。僕らは喫茶店通う金がなくなるとトシキさんの家をたまり場としていた。
「カズオがこのくらい気が狂うくらいには」
タイガが冷めた目でこちらを眺める。
「それは一度見てみたいな」
ニヤニヤとするトシキさんの右目が脹れていた。三島大学のヘップバーン・上坂優子に自主制作映画の出演を取り付けたが、それをよく思わなかった取り巻きに締められたらしい。あまりにも哀れなトシキさんを見ていると自然と涙が出てくる。
「とにかく描くミステリーサークルの案を考えようじゃないか」
僕は超怪奇全書を開く。



倉庫の前には既にタイガがいた。毎日通い、退屈の象徴である学校も夜に来ると全く雰囲気が変わる。昼間の学校に慣れている分、違和感が強い。魔物が住んでいるようだ。さらりと風が吹き、額から汗が流れていることに気づく。

決めていた図案を校庭に木の棒で下書きし、石灰で清書するだけだ。作業自体は淡々と進めたが、心臓はずっと高鳴っていた。手汗を何度もシャツで拭った。

ふと家のベランダから見えるラブホテルのことを思い出した。忘れようにも忘れることのできないベランダからの眺めは確かに僕の原風景だ。白い塔の正体を知った時、なにかが汚れたような気がした。この漠然とした嫌悪感を抱えてこれからも生きると思うとあまりに不当だ。けれど世の中などそんなものかもしれない。歳を重ね、知識を得ることで、宝物だと思っていたものがガラクタだったと判明することもある。それもまた成長と呼べる。自分が乗っているのは立派な蒸気船ではく、泥の船だ。

2時間ほどかけ、僕らは巨大ミステリーサークルを完成させた。木の棒は遠くへぶん投げ、使った石灰等の道具は丁寧に倉庫へとしまった。

僕らは塀によじ登り上から校庭を眺めた。そこには立派なミステリーサークルの姿があった。幾何学文様と植物文様を合わせたデザインは実に奇妙で地球外の何かを思わせた。言葉にできない達成感が全身を駆け巡る。

「朝早く来た教師がこれを見つけて慌てて消したりしてな」
タイガはあまりにも現実的なことを言って僕を萎えさせた。黒澤麗子に見てもらわないと意味がないというのに。
「やっぱ窓の2、3枚割っとくか?」



月は高く、僕らを照らしていた。自分が乗っているのが蒸気船だろうと泥の船だろうとこの月の光が誰しもに平等に届けばいいな、と思った。