ぽけてん

someone in the crowd

満月、故

 

 

 

 

大学生の時、本屋でバイトをしていた。のどかなバイト先だった。穏やかな性格の人が多く、本当にストレスフリーな職場だった。

 

そんな中、少し変わった人がいた。名をゆきのさんと言う。フリーターで年は24,25くらいだと思う。

 

土日に僕はゆきのさんとシフトがしばしば被った。ゆきのさんはおしゃべりでレジに人が来ないとよく話しかけてきた。

 

ゆきのさんは脳内が中学生で止まっているため妄想話が大好きだった。"バイオハザードの世界に迷い込んだらどうするか"とか"高校の文化祭で自分がバンドするなら何を演奏したいか"とか。あまり真面目に相手をすると変に盛り上がってしまいそうな話題だから僕は適当にあしらっていた。

 

 

 

 

ゆきのさんは掴み所のない性格をしていた。良くも悪くも適当だった。適当故にフリーターなのか、フリーター故に適当なのか。

 

ある土曜日の夜、僕とゆきのさんと社員さんの3人のシフトの日があった。働いていた本屋は常時暇なのだが、その日は珍しく忙しかった。具体的な内容は忘れたが、せかせかレジ対応している中、ゆきのさんが客にしょーもないクレームを受けていた。本屋の客層は基本的に良いが、接客業をやっている限り理不尽なクレームからは逃れることはできない。

 

その日の締め作業の時、ゆきのさんは受けたクレームのことで落ち込んでいた。僕は優しさを見せてそれとなく慰めの言葉を投げたが、乾いた笑い声が返ってきた。

 

「今日は満月だし仕方ないか。こういう日もある。」

そうゆきのさんがぼやいた。

「そうすっね。」

よくわからなかったが、とりあえず同意しといた。ゆきのさんの奇天烈な発言は今に始まったことではない。

 

帰り道、ふと夜空を見上げたら三日月が煌々と照っていた。

「満月じゃねーじゃん」

僕の呟きは常磐線の走る音にかき消された。

 

 

 

 

ゆきのさんは喫煙者だった。働いていた本屋が入っている雑居ビルの目の前には喫煙所があり、ゆきのさんは仕事終わりによくそこで煙草を吸っていた。僕は煙草は吸わないが、仕事終わりに喫煙所でゆきのさんと時々雑談をした。

 

僕は旅行が好きでよく一人旅をしていたのだが、ゆきのさんはその話を聞きたがった。親以外僕の一人旅のエピソードを聞きたがる人が周りにいなかったから僕は意気揚々と語った。

「知らない街を歩いていると世界に溶けてしまいそうになる。」

ゆきのさんはそう言った。不思議な感性だ。

「私が誰からも忘れ去られちゃっても君だけは覚えていてね。」

人は誰からも忘れられた時本当の死を迎える。逆に誰かに覚えられ続けている限り人はその人の中でずっと生き続ける。そんなことを思ったりした。

 

 

 

働いていた本屋が入っている雑居ビルの2階に休憩室がある。その休憩室は結構広い上にお菓子が常備されているから、僕は早めに着いた時なんかはその休憩室で時間を潰していた。

 

ある日休憩室に行くと、ゆきのさんがジャンプを読んでいた。僕が声をかけると、ゆきのさんは複雑な表情でこう叫んだ。

「私を置いて幸せになるな!!!」

なんの話かといえば、ナルトが結婚したらしい。ゆきのさんはナルトのファンだった。

 

いつもの雑談の時に「私がサスケに刺されて倒れてたらどうする?」と急に聞いてきてから「さぁ?」とあしらったら「ヒヒヒッ」と変な笑い声を漏らしてた。そのくらいナルトのファンだった。

 

ナルトの幸せモードにヤジを飛ばす割にゆきのさんには彼氏がいた。詳しくは知らないが普通にサラリーマンをやっていて、殆ど養ってもらっているらしい。ゆきのさん曰く、彼氏が甘やかしてくれるから自分はこんなに緩く生きていけるのだと何故か自慢げに話していた。

 

何かの拍子にゆきのさんの彼氏が死なないかなと僕は思った。

 

早く社会人になって財力を持ちたい。学生という身分はあまりに滑稽だ。

 

 

 

 

 

身を切りさくような凍てつく風が吹き荒ぶ。厚い雲が空を覆い、今にも押し潰されてぺしゃんこになりそうだった。僕の憂鬱な気分をそっくりそのまま世界が反映したような天気。そんな女々しいことを考える自分に酷く哀れみを感じる。

 

その日はゆきのさんの最終出社日だった。理由はよく知らないが、ゆきのさんは本屋を去るらしい。その日はゆきのさんと僕が入れ違いのシフトだった。

 

いつもより15分早く僕は雑居ビルの裏口のドアをくぐった。スマホをいじりながら階段を登り、休憩室のドアを開けた。

 

ゆきのさんがドアの前に仁王立ちしていた。

 

僕は平然を装って挨拶をしたつもりだが、声が上擦っていたような気がする。

 

お世話になりました、と表面的な挨拶をお互い交わした。沈黙が訪れた。それは1,2秒だったかもしれないし、10秒くらいだったかもしれない。とても居心地が悪かった。言いたいことは沢山あった。けれど、何も僕の口から出ることはなかった。

 

僕はヘラヘラしながら「お元気で」と言って別れを告げた。

 

こうして僕の一方通行の想いは泡影となった。

 

 

 

 

翌週、髪を茶髪にして本屋に顔を出したら「似合わないな」と同期に笑われた。

 

別にゆきのさんと今生の別れなわけではない。連絡先は知っているだからいつでも連絡は取れる。しかし、僕は連絡をすることはないだろうし、ゆきのさんから連絡がくることもないだろう。僕らの関係は単に同じ職場で働いていた者同士、それ以上でもそれ以下でもない。

 

バイト終わりに僕は喫煙所にいた。そう、あの日以来僕は時々煙草を吸うようになった。あの人が喫煙所でよく吸っていたアメスピを。夜空を見上げたらぽかんと満月が浮かんでいた。煙がとても目にしみる。

 

 

 

 

 

 

 

思い返せば語るようなことでもないつまらない話だ。退屈。