ぽけてん

someone in the crowd

たとえそれがエゴだとしても-重力ピエロ-

初めて伊坂幸太郎の重力ピエロを読んだのは10年も前のことになる。なかなかの年月が流れた。10年前の自分は10年後の未来なんて全く想像していなかった。初めて本作を読んでから今までに何回再読しただろうか。結構読み返したような気もするし、そうでないような気もする。ただ、久々に読み返した本作の内容はよく覚えていた。面白くてもすぐに内容を忘れてしまう小説がある一方で、ずっと内容を覚えている小説もある。その違いが一体何なのかはわからないが、相性みたいなものなのかもしれない。好みよりもっと根源的ななにか。この10年、少なくない数の小説を読んできたが、内容を明確に覚えている小説がどれだけあるだろうか。

本作を初めて読んだ時の感覚は今でも思い出せる。教室のざわめき、黒板の上を走るチョーク、校庭に降る西日。中学2年生の僕の世界は極めて閉じたものだった。それが変わったのが本作を読んだ時だった。

久々に読み返した本作は相変わらず面白かった。ただ、正直に言えば、全てが賞賛に値するかと問われたらそうではないと答える。奇を衒った言動やご都合主義的なエピソードについ苦笑いしてしまうことはあった。だからといって重力ピエロの価値が損なわれるわけではない。



改めて僕は重力ピエロのどこが好きなのだろうか考えた。答えはいつも曖昧模糊としていて実態がない。今回再読してみて思ったのは、多分、僕は春がレイプ魔を撲殺するところに魅力を感じているのかもしれない。それは勧善懲悪な物語だから、というより、社会的な正しさと自分の中の正しさが乖離していると理解しながらも、葛藤と苦悩を繰り返した末に行動を起こすその生き様に惚れたのだ。ルールが自分の意思と反した時、それを飛び越えてしまうような自由さが眩しかったのだ。雑に言えばロックだと思った。

僕はあまり正常な倫理観を持ち合わせていなかいから、殺人も復讐も絶対に行っていけないものとは思わない。必要だと判断せざるを得ない状況はある。ただ筋は通すべきだ。作中にもハンムラビ法典が出てきたが、人を殺すなら誰かに殺されても文句は言えない(死んだら喋れないですけど爆笑)。撃っていいのは撃たれる覚悟があるやつだけ、そのくらい筋は通すべきだ。

ルールや法律、規範は何のためにあるのだろう?「良いルールは人を律する、悪いルールは人を縛る」これはネットで見た言葉だが、まさにその通りだと思う。ルールを守ることが大事なのではない。何のためのルールなのか、そのルールによって何が保たれるのか、それらを理解して行動に還元することが、ルールの意義だ。本当に自分が必要だと思うなら、全てが自分に跳ね返ってくる覚悟があるなら、ルールなんてぶっ壊してしまえばいいのだ。そんなのただのエゴだと非難されるだろう。そうだ、エゴだ。だからなんだ?自分が真に考え抜いた選択を他の誰かにとやかく言われる筋合いなんてない。ルールという重力に縛られるだけの人生はまっぴら御免だ。