ぽけてん

someone in the crowd

コトバ

私が就活していた時、往々にしてこんな企業説明会が蔓延っていた。

 

 弊社は様々なニーズに応じて最適なソリューションをフレキシブルに働き結果にコミットする

 

!?!?!?!?!?!?

 

したり顔で説明を続ける人事。眠気と戦う学生達。就活という人生の岐路。鎮座する弱肉強食。資本主義の暴力。

 

私の知らない間に日本語はここまで進化していたのか。これが若者言葉についていけない親の気持ちなのですか

 

ふむふむと頷きながら話を聞いてはいるが、何を言っているのかちんぷんかんぷんである。

 

しかし、説明会といいつつも誰に向けて何の話をしたいのか、さっぱり謎だ。

 

まぁこんな文句を言いつつも私の入社した会社のHPは無限にカタカナ語が羅列されている。んもぅ!

 

 

カタカナ語とは、日本語の文章中においてカタカナで表記され、主に欧米諸国から借り入れられた言葉を指す。「キャラメル」はポルトガルから借り入れられた言葉だ。16世紀まで日本には「キャラメル」がなかったが、交易を行っていたポルトガルから「キャラメル」が伝えられる。そこで初めて日本に「キャラメル」の概念と名前が定着した。このようにカタカナ語とは日本語を補うために借り入れられる言葉であり、新しい概念を日本に取り入れる手段として用いられる。

 

 

昨今、テレビでも学校でも会社でもプライベートでもカタカナ語の頻出頻度は上昇傾向にある。何故か、と問われればその原因は結構容易に挙げられる。その原因をつらつらと挙げてもよいのだが、今回はある視点から深掘りしてみようと思う。

 

学生の頃、カタカナ語を使う理由の8割はかっこつけによるものという考えを持っていた。この考えは今でも正しいと私は思っている。勿論、それ以外にも様々な要因はあるにしてもかっこつけが主な理由の筆頭となるはずだ。しかし、この考えを持つようになってからより人の発するカタカナ語に対して敏感になり、人がカタカナ語を使うのはそういう表層的な理由ではなくもっと深層的な理由によるものではないかと考えるようにもなった。

 

人間とは飽きやすい生き物である。常に新しいものを求め、刺激を欲している。流行は生まれて消え生まれて消えを繰り返し、私達を取り巻く物事は目まぐるしく変わっていく。この性質は言葉にも当てはまる。流行語大賞なんかがわかりやすい例ではあるが、言葉も多くが生まれ多くが消えていく。

 

人の生活と言葉は切り離せない関係である。言葉無くして人は生活を送れない。人から言葉を取り上げたら人は何になってしまうのか。多分、チンパンジーと区別のつかない何かになってしまうのでしょう。

 

言葉とは非常に流動的である。人が変われば言葉も変わる。環境が変われば言葉も変わる。同じ言語でも時代が変わればその様相は違う。日本語も200年前と400年前と600年前じゃ形が変わってくる。また、同じ言語でも使用する地域が違えばその様相は違う。日本語も使用地域が違えば方言として多種多様な形に変わってくる。

 

さて、ここまで人と言葉の性質をつらつらと書いてきたわけだけれど、段々と本記事の着地点が見えてきたかなん?新しいものに手を出してみたくなるのは人の性質である。そこに目新しいカタカナ語があったら使ってみたくなるのはある意味必然なのだ。カタカナ語の頻出頻度が上昇しているのは、かっこつけとか利便性や実用性が高いとかそういう表層的な理由ではなく、新しいものに手を出してしまう人間の本能のようなものが働いているためではないだろうか。目新しい言葉がある、使ってみたい、という結構単純な思考回路が根底にあるのではないかと私は思ったのだ。

 

言葉は生きている。それは時代的な視点から見ても地域的な視点から見ても明らかだ。じゃあなんでこんなにも言葉は変化しやすいのかといえば、人が(または人を取り巻く環境が)変わり続けるからである。グローバル化が進んでることもあって日本では今後ますますカタカナ語が増え続けることだろう。そのことに関する是非にはあまり私は興味はない。が、言葉を使う場面は選ぶべきである。冒頭に述べた企業説明会のような機会で、伝わりにくいような言葉を選ぶのは最悪である。目新しさばかりに気を取られ、"伝える"という本質を忘れてしまっては本末転倒である。しかし、この本末転倒は本当によく色んな場面で見られるのが悲しきことなんだな。

 

 

こちらは私が学生の頃に書いた記事。

内容は散らかってるけどこっちの方が読んでて面白いネ

カタカナ語氾濫の要因を考える - 独白デビビビーン