ぽけてん

someone in the crowd

辺境の渚

 

その演奏は湖の底を思わせた。ゆっくりと底へ沈み込む感覚。静謐なベールが辺りを柔らかく覆う。間が思考を奪い去り、哀切を思わせる旋律が僕の身体を通り過ぎる。

空には淡いひつじ雲が広がっている。窓は空いていたが風はなく、調和的な空間がそこにあった。ログハウス風に統一された室内に置かれた電子ピアノ。凛久さんは静かにピアノを弾く。テーブルの木目、壁にかけられた文字盤のない時計、本棚の上に置かれた小さなサボテンの鉢植え。そこでは何もかもが息を潜め演奏に聴き入っていた。

時として音楽は世界の形を全く変えてしまうことがある。あらゆるものの形が崩され、再構築される。それは一見恐ろしいことにも思えるが、実は自然なことなのだ。誰だって変化の最中で失望を感じることがある。

凛久さんは演奏を終え、気怠そうに目を開けた。陽だまりの中で昼寝から目覚めたように軽く頭を振り、周りの景色を確かめる。僕は何か声をかけようとしたが、何を言葉にしていいのかわからず口を閉ざしたままだった。霧雨のような沈黙が場を満たす。

凛久さんは気の抜けた顔をしたまま立ち上がり、僕の向かい側に座った。ティーポットから紅茶を注ぐ。近所の雑貨屋で買ったスリランカからの輸入品の茶葉。凛久さんの戸棚には沢山の種類の茶葉がある。セイロンティーの香りがほのかに漂う。それはドアの向こうから誰かが呼んでいるような香りだった。

「ねぇ」凛久さんは僕を見る。その瞳は僕を捉えているようで、全く別の場所を見ているようだった。彼は時々こういう眼をする。実際、彼は住んでいる世界が少し違った。
「内的な願望を追求すればするほど社会性が失われていく。いろんなものを失ってもその願望から逃れることができない。そうだね?」その瞳は僕に向けられてるが僕を見ていない。
「あるいはそうかもしれない」
「孤立も次第に身体が慣れてくる。何が正しいことなのかわからないけど、深く潜れるだけ潜ってみたいんだ」
「それは」僕は言葉を探す。バラバラのパズルから目的のピースを探すみたいに。「宿命なんだと思う」
「宿命」凛久さんはその重さを確かめるように神妙な顔をする。
「でも、万物は移ろい、摩耗する」
「あるいはそうかもしれない」

哀切を思わせる旋律はまだ深いところで響いていた。