日本語にない言葉たち
翻訳とは、ある言語を別の言語に移し替えることだ。文法の違いはあれど、ひとつの単語はまた別のひとつの単語に置き換えられる。けれど時折、適切な単語に置き換えられない場合がある。そんな翻訳の困難を「日本語にない」と表した。勿論、その単語が日本語にないからと言ってそれが理解できないわけではない(ニュアンスと捉え方に多少の差異はあるかもしれないが…)。そんな各言語の独特な言葉たちを一部ご紹介する。
Utepils(ノルウェー語)
意味:天気が良い日に外でビールを飲むこと。
広く青い空、浮かぶ白い雲、吹き抜ける海風。そこにビールがあればこれ以上言うことはない。
Pisan zapra(マレー語)
意味:バナナを食べるときの所要時間。
マレーの民話では、人食い鬼は昼間バナナの木に隠れているらしい。
Gökotta(スウェーデン語)
意味:朝一番に鳴く鳥の声を聴くために早起きすること。
キリスト昇天の日に森に出かけ、カッコウの春一番の鳴き声を聞くスウェーデンの地域文化が由来とのこと。
Abbiocco(イタリア語)
意味:たくさん食べた後にやってくる眠気。
ドカ食い気絶で優勝じゃ。
טרעפּ ווערטעל(イディッシュ語)
※英表記でtrepverter
意味:後になって思いうかんだ当意即妙な言葉の返し。直訳すると「言葉の階段」。
イディッシュ語とは、ドイツ語の一方言とされ、崩れた高地ドイツ語にヘブライ語やスラブ語の単語を交えた言語らしい。
Mångata(スウェーデン語)
意味:水面に映った道のように見える月明り。
真夜中にコンビニに出かけ、アイスを食べながら海辺を歩く。さらりと流れる潮風。ふと海を見るとそこにある、光の道。
Hiraeth(ウェールズ語)
意味:帰ることが出来ない場所への郷愁と哀切の気持ち。
優しかった街の景色は遠く離れて鮮やかになる。
Waldeinsamkeit(ドイツ語)
意味:森の中に一人でいる時のゆったりとした孤独感。
コンクリートジャングルで社会の歯車をずっとやっているとこの感覚を忘れてしまいそうになる。
以上。
世界は広く、それぞれの場所にそれぞれの文化や考え方が存在する。人がいて、生活がある。そこで人はコーヒーを飲んだり、音楽を聴いたり、新聞を読んだり、空を見上げたりする。そして言葉を喋る。言葉を書く。
人は言葉をもって自分の想いを誰かに伝える。言葉をもって何かを考え、言葉をもって世界を規定する。言葉は人が人でありうるための基ともいえる。
語彙、それは表現の可能性だ。語彙の幅はそれぞれの言語によってバリエーションがある。文化が違えば言葉も違う。
語彙は生活に根付く。生活に関わり深いものほどその語彙は増える。漁業が盛んな日本は魚に関する語彙が多い(出世魚とか)、畜産業が盛んなアメリカは家畜に関する語彙が多い、等々。有形物に対する名称はそのような理由でわかりやすい。逆に感覚的な(無形物)語彙は説明が難しい。社会的な風潮や思考の傾向が多く反映されると思うが、それは理屈では説明しきれない。上記で最後に紹介した「Waldeinsamkeit(ドイツ語)」なんかは独特な感覚だ。どれほどドイツで一般的なのかは未知だが、この感覚が単語化されている文化に魅力を感じずにはいられない。
なんにせよ、このような言語間差異を知ることはとても面白い。